マッチョさんの剃刀

飲食店で働くすべての人が「この仕事を選んで良かった!」と心から思えるように。

会話によって

 人の内面は目に見えない。

 

 

 それでも、その人の瞳から心を、声から気持ちを、発する言葉から頭の中を、覗き見て推し測ることはできると思う。

 

 

 コミュニケーションを、何でもかんでもLINEで済まそうとするから、覗き見て推し測る力が身に付かないし、退化する。

 

 

 書く、消す、コピペ… そんなこと会話ではできない。

 

 

 伝達手段と会話は別物。

 

 

 会話でしか磨かれないことがある。

 

 

 

 人の内面は目に見えない。

 

 

 だけれど、会話によってそれは、モノクロのレントゲンのように、薄ぼんやりと姿を見せてくれるかもしれない。

 

 

 会って、話そう。

 


 

 

 

 

 

『想う』は燃料

 『想う』は、『考える』や『実行する』よりも軟弱に捉えられて、なんとなく優先順位の隅っこにおいやられている気がする。

 

 

 『想う』という時間そのものの大切さ。

 

 

 『想う』が満ちれば、頭も体も突き動かされる。

 

 

 『想う』は燃料。

 

 

 『想う』ことを、ないがしろにするなよな。

 

 

 

リーダーのあり方

 育ち過ぎた大きなカブを目の前にして、おじいさんは「アカン、これ、絶対一人じゃ無理や…」と呟いたあとすぐにおばあさんを呼んだ。

 

 おばあさんを呼んで一緒に引っ張り、抜けなかったので今度は孫を呼んで一緒に引っ張った。

 

 それでもカブは抜けなかった。

 

 

 「ちょっと僕、アイツら呼んでくるわ!」

 

 

 孫はそう言って誰かを呼びに行った。

 

 おじいさんは「へぇー、協力してくれる仲間おるんや… へぇー…」とおばあさんに言った。おばあさんも嬉しそうに「そうみたいですね」と笑った。

 

 

 少しして、孫は犬を連れて来た。

 

 おじいさんは心の中で「犬ッ!」と突っ込んで、「(まぁええわ)とにかく引っ張ろッ」と言って引っ張った。

 

 抜けない。

 

 「こっち、こっち!」と孫がその場で誰かを呼んだ。呼んだ先には猫がいた。

 

 

 「猫ッ!犬の次は猫ッ!コイツ、人間に仲間おらんのかいッ!?」

 

 

 と小声で言いながらおばあさんの方を見た。おばあさんは黒目だけになって、ただただ前を向いていた。

 

 おじいさんは気を取り直して「(近所の人が来ないうちに)とにかく引っ張ろッ」と言い、みんなで引っ張った。

 

 まだ抜けない。

 

 

 「僕、もうちょっと仲間呼んでくるわ!」

 

 

 と言い残し、犬と猫を置いて走って行った。

 

 

 「パターン的にネズミやな… それ以外ないやろ…」

 

 

 おじいさんはそう言いながらおばあさんの方を見た。おばあさんは黒目のままで、黙って前を向いていた。

 

 

 しばらくすると「おーい!連れて来たよー!」と叫ぶ孫の声が聞こえて来た。

 

 息を切らせて走って来る孫。その後ろにはネズミ。しかも80匹の大群。

 

 

 「大群のパターンッ!」

 

 

 おじいさんはそう叫んだ後、「このままやったらコイツ、何を連れて来るか分からんから、もうここらで終わらさなアカン…」と呟いて、

 

 

 「さぁ、みんな!うんとこしょー、どっこいしょー!の掛け声で引っ張ろかーッ!」

 

 

 と気合いを入れた。

 

 声を合わせて引っ張った。

 

 「うんとこしょー、どっこいしょー!」とみんなで叫ぶうちに、みんなが一つになっていく気がした。

 

 おじいさんはもちろん、黒目だったおばあさんも、孫も、犬も、猫も、ネズミ80匹も、同じ気持ちだった。

 

 

 何回目かの掛け声の後、大きなカブはスッポリ抜けた。

 

 「ありがとう、みんな!みんなのおかげや、ホンマにありがとう!」

 

 おじいさんは言った。言ったあと、続けて、

 

 

 「せやけど何で手伝ってくれたん?マジで嬉しいねんけど。」

 

 

 と大きなカブの茎の周りに座るみんなに向かって言うと、80匹のネズミの内の1匹が、

 

 

 「おじいさんの孫がな、いつも俺らの話し聞いてくれたり、相談に乗ってくれたりするねん。みんなもそうちゃうかな?」

 

 

 と言った。他のネズミ79匹も、犬も猫もうんうんと頷いている。

 

 

 嬉しくなったおじいさんは、

 

 

 「そうか、やっぱりコミュニケーションって大切やな。」

 

 

 と言うと、

 

 

 「そらそうやん。信頼関係を築こうと思ったら、それしかなくない?信頼関係って、一番大事やろ?建物の基礎みたいなもんやろ?それが無いのに、何も積み上げられへんもんな。おばあさんもそうちゃうかな?おじいさんのこと、信頼してるんちゃうかな?孫も信頼してるから、おじいさんの言うことを聞いたんちゃうかな?この大きなカブも、信頼関係で抜けたみたいなもんちゃうかな?」

 

 

 ネズミはそう言いながらおじいさんに向かってウインクをした。

 

 おじいさんは背中に流れる汗を感じながら「信頼関係か…」と心の中でつぶやき、手伝ってくれた動物たちを見送った。

 

 すべての動物を見送った後、おじいさんは孫に言った。

 

 

 「今日はありがとう。それにしてもお前、人間の仲間はおらんのか?」

 

 

 孫は振り向きながら、

 

 

 「おるよ。でも近くにいるのはアイツら。近くに仲間がいるのに、わざわざ遠くの仲間を頼る必要ないやん。ちがう?」

 

 

 と言った。

 

 おじいさんは、なぜか少し恥ずかしくなって、おばあさんに「カブは漬物にしようか?」と言った。

 

 おばあさんは「そうですね、そうしましょう」と言って、笑った。

 

 

 

 

手紙を書くように

 因果律という概念がある。

 

 インガリツ。

 

 末成由美吉本新喜劇で披露するギャグ「インガスンガスンッ!」は、実は「因果、寸が寸」という言葉で、「因果ってものは、チョッとの行いはチョッとの結果として返ってくるものだよ」という因果の説明をギャグという風呂敷に包んで世間にお届けしているのかもしれない。僕にはそう聞こえる。病院へ行ってきます。

 

 で、因果律

 

 因果律は、「すべての行動にはそれに応じた結果が生じる」という考え方で、自分が行う一つ一つの行動は、未来に何らかの影響を与えて、それが結果として自分に返ってくるという、簡単に言えば『原因と結果の法則』のこと。

 

 「アホ!」と誰かに言えば、その「アホ!」は巡り巡って、「アホ!」と言った分の結果が返って来る。

 

 

 僕は49年間で、ざっと20兆回程度の「アホ!」を誰かしらに放っているので、時折とんでもない不運に見舞われてしまうのは、きっとあの時の「アホ!」のせいなんだろう。インガスンガスぅ〜ン…。

 

 

 

 毎日店舗から届く日報に返信するのが日課になっていて、今日、ある店のスタッフが書いた日報の一文が、とてもインガスンガスンだった。

 

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  原因から生まれる結果は、その瞬間かも知れないし、2秒後か、2分後かもしれない。

 

 もしかしたらもっと未来の、20年後か、まだもっと先なのかも知れない。

 


 しかも、どんな応えなのかもわからない。

 

 

 ただ、必ずどこかで、原因と結果は結びつく。

 


 それが、いい。

 

 

 

 いつ返って来るかわからないけれど、必ず返事がある手紙を書いてると思えば、ワクワクする。

 

 どうせなら、喜んでもらいたい。

 


 そうやって楽しんだ方がいい。

 


 何を待っているのかも忘れてしまうくらいの、「喜ばせてやろう!」と思ってしたためた、たくさんの手紙。

 

 

 その全部に返事は届く。

 

 いつかはわからないけれど、届く。

 

 「ごめんやしておくれやしてごめんやっしゃー」と、言いながら。

 

 

 

 

 

自分がそうならナイト!

 ある日、久しぶりに揃ってはしゃぐ3人の娘をボンヤリ見ながら何となく思った。

 

 「子どもを育てるなんて、できないなぁ」

 

 と。

 

 

 子どもたちは、たぶん自分でもよくわからない「何か」を探しながら、いろんな出会いを繰り返し、与えられたものでは何か違うような気がして、自分で見つけるしかないよな、なんて思いながら、よくわからないなりに、もがいている。

 

 そうやってもがいて見つけた、憧れ。

 

 

 そして、向かう。それに向かって、自分で育つ。

 

 「憧れ」に向かって、自分で育つ。

 

 

 そんなことを、ふと。

 

 

 

 僕もそうだった。

 

 あの日、憧れを見つけた。

 

macchosan.hatenadiary.org

 

 

 

 部下育成なんていうのも、同じなのかもしれない。

 

 

 仕組みじゃない。

 

 それっぽくは見えるけれど、それは本物じゃない。

 

 

 「あなたは、憧れられる人ですか?」

 

 

 答えは、「育てたい」と願う側にするこの質問に、あるような気がする。

 

 自分が、そうならないとな。

 

 

 

ぞうのジャンボ

 大きいことを表す【ジャンボ】という言葉は、実在した象の名前が由来だ。

 

 

 ジャンボは、オスのアフリカ象で、フランス領スーダン(現:マリ共和国)で生まれ、フランス・パリの動物園を経て、イギリス・ロンドンの動物園に移り、その動物園で、人を乗せる実演を行うことで人気者になった。

 
 〔ジャンボ〕という名前は、動物園の飼育係が、スワヒリ語で「こんにちは」を意味する「jambo」からとったものらしい。

 

 人気者のジャンボはサーカス団に移籍し、そこで『地球上で最も大きな四本足の動物』と宣伝されたことから、【ジャンボ】という言葉が【大きい】という意味を持つようになっていった。

 

 そのサーカス団でも一番の人気者だったジャンボは、突然の死を迎える。

 

 機関車に乗り、次の街へ移動する時に同じサーカス団の若い象が暴れ出し、反対側の線路に飛び出した。そこへ走って来た機関車と衝突しそうになった瞬間、ジャンボはその若い象を突き飛ばし、自分がその機関車と衝突し、非業の死を遂げた。

 

 勇敢で人気者のジャンボの死を悼み、ジャンボにまつわる多くの物語が、多くの人たちによって語られ、現在もその場所に、ジャンボの実物大の像が建っている。…

 

 

 20歳代前半で僕は、未経験で飲食業界に飛び込んだ。

 

 働いていた超繁盛店のそのお店で認められ、店長を任せられるようになった頃、一人の背の高い若者と出会った。

 

 面接にやって来た専門学校に通う彼を、僕は一目見て気に入り、「背が大きいからジャンボでいこう!」という何のひねりもないあだ名を付け、名札にマジックで〔ジャンボ〕と書いて渡した。

 

 気に入ったのは僕だけでは無かったようで、ジャンボはそのお店であっという間に一番の人気者になった。

 

 彼が休みの日は多くのお客様が残念がり、「ジャンボのシフトを教えてほしい!」と言って帰って行った。

 

 僕は、彼と一緒に働くのが好きだった。

 

 人を笑顔にさせる魅力が、彼にはあった。

 

 

 あの日から30年近い時間が過ぎ、〔ジャンボ〕というあだ名から、本名の〔こうぞう〕に呼び方を変えて随分経つのに、白のコック服を着てホールを走り回り、あちこちでお客様を笑顔にさせているジャンボの姿が鮮明に浮かぶ。

 

 

 2年前、「余命宣告を受けた」と連絡があった。

 

 癌だった。

 

 少しでも彼を元気づけようと思い、食事に誘った。

 

 待ち合わせたお店で彼は「これ、絶対に似合うと思って」と、僕の首にストールを巻いてくれた。

 

 元気づけようと思った僕が、逆に元気をもらった。

 

 「俺、コレが似合うような人になって、これを巻いてテレビに出て、「アレ、俺がプレゼントしたやつやねん!」って周りの人に自慢できるように、頑張るからな!」

 

 そんな約束をして、グラスを合わせた。

 

 

 それから2年後の昨日、彼は、僕のまだ知らない世界へ旅立った。

 

 

 旅立つ少し前のある日、もしかすると、もう最後になるかもしれないと不意に思い、LINEでメッセージを送った。

 

 

 20分後に届いたそれは、初めて出会った時の、ジャンボと呼ばれた彼が返事をしてくれたようだった。

 

 

 物語は、続く。

 

 140年後の今も、物語として生き続けている象のジャンボのそれが、教えてくれている。

 

 忘れない。

 

 永遠は、ある。

 

 

嫌々だから

 美術家の横尾忠則さんがXにポストした

 

 

 が、めちゃくちゃ刺さった。

 

 

 自分の中に沸々と湧き出る『思い』のようなものを、テレパシーで湧き出たまんまもれなく届けられればいいけれど、僕たちが住んでいる世界はとてもめんどくさい。

 

 『思い』を届けるには、どうにかして表現しないといけない。

 

 それが絵だったり、文字だったり、歌だったり、動きだったり、香りだったり、泣いたり、叫んだり。

 

 

 『思い』があればあるほど、その表現は複雑(に見える)になっていく。

 

 勝手な解釈だけど僕にはそう届いて刺さった。

 

 アウトプットの捉え方が、変わった。

THE SUN(太陽)

 ある日、北風が太陽のところにやって来て「太陽くん!今からぼくと力比べしない?」みたいなことを言い、太陽はそれに乗っかって、〔砂漠を歩く旅人の服を脱がすのはどっち?ゲーム〕をすることに。

 

 北風が冷たい風を必死で旅人に吹き付けても旅人はそれに堪え、太陽のターンになると、太陽は温かい日差しを注ぎまくり、旅人は簡単に服を脱ぐというストーリー。

 

 

 北風は「絶対脱がせてやる」という”自分の意思”オンリーで、旅人を服を脱ぐためのツールとして見ていることに対して太陽は、日差しの加減で”旅人の意思”によって服を脱がせようとしているという対比。

 

 

 ”自分の意思”と”相手の意思”。

 

 

 イソップ寓話の『北風と太陽』は、そういう”意思の根本的違い”で生じる差を表現した物語だと、僕は勝手に解釈している。

 

 

 僕たちの周りにもそれは溢れている。

 

 【促がし方】を考えるより【勧め方】を考える方が、簡単に思えるから。

 

 【話しかけられる方法】より【話しかける方法】の方が、たくさんあるように思えるから。

 

 だから、あの手この手でアプローチという風が北風のように吹きまくっている。

 

 北風は、旅人の服を脱がすことができなかったのに。

 

 

 ”自分の意思”と”相手の意思”。

 

 

 本気で関係性を築いていきたいなら、この違いにもっと目を向けないとな。

 

 即効性が高いように感じる「Z世代はタイパっす!」を少し緩やかにして、「太陽ならどうするか?」で、もっと溢れさせたい。

 

 

 打算より、THE SUN(太陽)がいい。

 

 

 

ミス失敗定義付けマンの見聞

 失敗をミスだと思ったり、ミスを失敗だと認識したり、解釈が人によってあやふやなので、ミス失敗定義付けマン(男なのか女なのかややこしい)として、ここは僕がバシッと定義付けしておく(勝手に)。

 

 

 失敗は、成功の途中にあって、成功の確率を上げる取り組みだ。言うならば〔判断〕の問題。

 

 

 宝物がこの先にあると信じて、それに向かって進む人たちがいるとする。

 

 彼らは枝分かれだらけの道を進んでいる。「また枝分かれだ。右か左か?よし!右に進んでみよう。あらら、右が行き止まりだ。そうか、左に行けばいいんだな。」… この判断によって、宝物を手にする確率は上がった。

 

 これが失敗。

 

 

 一方ミスは、「おい!お前、地図持ってたよな?この道は右か左かどっち?」「すいません!さっき、焚火をした時に、燃やしてしまいました!」… 不注意によって起こる迷惑。

 

 これがミス。

 

 

 失敗は、やろうとしていることが間違っている。〔判断〕

 

 ミスは、やると決まっていることを間違える。〔不注意〕

 

 

 ミスを続ければ評価を下げるが、失敗は成功の可能性を上げる。

 

 ミスが続くと物語は終わるが、失敗が続くと物語は広がる。

 

 そういうことだ。

 

 

 そうと決まったなら、今日も失敗をしにいこう。

 

 物語を、広げよう。

 

 

 

 

ハッとして!Goal

 2024年が始まり、【目標】という言葉を耳にする機会が増えた。

 

 僕の周りには、目標を渾身の一撃化して年初にブチかましておき、その一発で一年を乗り切ろうとする人や、建築物のように立て、入口をつくるのを忘れてしまうような人が結構いる。自覚は無いっぽいけれど。

 

 

 目標はブチかますものでも、ブチたてるものでもない。

 

 目標なんてもっと手軽。

 

 「お腹が減ったから、コンビニに行って豚まんを買う」みたいなもの。

 

 ”お腹が減った”という今を、”コンビニに行って豚まんを買う”という行動で変える。

 

 そう、目標の意味は『今を変えること』だ。

 

 ”今”の自分が、”今”よりよくなるために設けるもの、それが目標。

 

 

 「ようやく見つけたコンビニに到着したけれど、お腹減ってたのがどっかに行ってしまった」

 

 みたいなことって、ある。

 

 そんな時は変えればいい。

 

 「せっかく来たから、なんか美味しいスイーツでも食べよっと」

 

 これが普通。これが目標を変えるということ。

 

 今の自分なんて、どんどん過去になっていく。自分が少しでも変わるたびに目標は変えていかないと、見失ったり見落としたり通り過ぎたりしてしまう。

 

 ただし、前提条件として、「やってみて」(行動)は必須。コンビニを探してそこに出かけるっていう行動が…

 

 

 とにもかくにも目標は、『今を変えるため』にある。

 

 

 設けたそれを見ることで「ハッ」とする。「ハッ」として今の自分の心持ちを問い、考え方を見直し、行動を変える。

 

 「ハッ」としなくなったなら、見失ったり見落としたり通り過ぎたりしてしまっている証拠なので、変えてしまう。自分が変化しているのだから、目標も変化していい。

 

 

 目標は、自分が成長するためのツール。

 

 成長に合わせてどんどん再設定して磨き上げる方がいい。

 

 変化したら、変化する度に言葉にして、たくさんの人に言いまくろう。

 

 言いまくると、誰かが「ハッ」とさせてくれる。

 

 そっちの方が抜かりが無い。

 

 ハッとして!Goalだ。

 

 

2024年の漢字は!

 三人いる娘の名前それぞれに、もれなく【音】が入っている。

 

 嫁さんのお腹に耳をあて心臓の鼓動を耳にした時の感動、産まれた時に初めて聴いた鳴き声、母乳を飲む音、小さなくしゃみ、初めてパパって呼んでくれたこと… 

 

 この子たちがくれたそんな素晴らしい時間を忘れてしまわないように、名前に【音】を入れたのだけれど、パパ初心者のパパは、それを何度も忘れてしまって、君たちに酷い事をしてしまったね。パパのバカ、バカパパバカ!…

 

 

 

 で、今年の漢字

 

 

 今年は【響】の年にしようと思う。

 

 「娘の名前まで持ち出したのに【音】とちゃうんかい!」

 

 って声が聞こえてきそうですが、ちゃう。

 

 

 【響】には、色んな意味も、関連熟語も多々あるけれど、シンプルに「伝わり広げる」活動で、多くの人を喜ばせてやろうと企んでいる。それがきっと形になって、「宣言通りになったなぁー!さすが!」なんて言われてニヤケている顔が浮かんでいる(消えないで)。2024年の暮れが楽しみ。

 

 

 そんなこんなで2024年が始まりました。

 

 年の初めは特に多くの人が神様に何かをお願いするので、神様も大忙し。

 

 でも、本当に叶えたいなら、年の初めの一度きりなんかじゃなくて、口に出して、いつも言い続けないと、な。

 

 

 思い続けるから考える。

 

 願い続けるから口に出し、祈り続けるから行動に移す。

 

 行動するから祈りは叶うのではなくて、考えて口に出して、行動するから叶う。

 

 祈るほどに考え、口に出して行動する。

 

 だから、祈りは叶う。

 

 

 強く打てば強く響き、弱く打てば弱く響く鐘の音のように。

 

 

 冒頭の【音】と、今年の目標漢字の【響】が見事に回収されました。さすが俺!ブラボー俺!

 

 ではまた、暮れに!

 

 

イキる。~2023年の始まりに【集】を選んだ振り返り~

 2021年から、日本漢字能力検定協会に一石を投じようと、「今年一年をどんな年にしたい?漢字一文字で表そう!」っていう目標設定を漢字一文字で表す企画を勝手にやってまして、年始には目標をこういう形でお知らせし☟

 

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 年末にはその振り返りをお届けするのを恒例にしていて ☟

 

 

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 2023年は【集】を選び 、例年と同じく駄文を書いた。☟

 

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 その中で僕は、

 

 「2023年の終わり、今年を振り返った時に【集】が教えてくれる意味。それを楽しみに待ちたい。」

 

 なんてイキりまくって締めくくっている。殴ってやりたい。

 

 

 

 2023年の漢字(目標)を【集】にしたのは、「無かったから欲しい」という願望や、「足りないから補いたい」という理想ではなくて、自分がやって来た延長線上にそれがあり、「あ、きっとそうなるだろうなぁ」という予感めいた感覚があってのことだったからで、結果として、その予感通りにお客様がお店に来てくれるようになることや、多くの人の目に触れる機会や、人との触れ合いや、会話や、声や… 【集】にまつわる事柄が文字通り集まる一年となった。

 

 

 ”いらないこと”もたくさん集まったけれど、きっとそれは、いつかの僕にとっての”いるもの”だったり、誰かの”いるのも”だったりするんだろう。それでいい。

 

 

 

 【集】という漢字は、木の上に、鳥が多く集まる様子を表したものが成り立ちと言われている。

 

 

 今年、僕の木に集まった鳥たちはどう羽ばたいて行くんだろう。

 

 2024年は、そんな鳥たちを追いかけ、見守り、得たものをわかち合う、そんな年にしたいなぁと、なんとなく思っている。

 

 

 いい感じで殴られない程度にイキれて良かった。

 

 

自分の目

 「自分が見ている」

 

 

 という意識の必要性。

 

 

 例えば誰かに意地悪をして、それを誰も見ていなかったとしても、それをした自分が、その自分をちゃんと見ている。

 

 

 そして少し、自分のことが嫌いになる。

 

 

 仲間についてしまったバレていない嘘。落ちているゴミをまたいで通った。あきらかに困っている人を無視して通り過ぎた。…

 

 

 そしてまた少し、自分のことが嫌いになる。

 

 

 「自分が見ている」

 

 

 という意識を失うと、どんどんどんどん自分のことが嫌いになっていくように思う。

 

 

 誰かが見ようが見まいが、自分の美意識を磨いてやればいいのだろうけど、人は弱い。

 

 

 寄りかかれる理由が必要な時がある。

 

 

 それが、人の目というやつ。

 

 

 その目がなかった時にやってしまうイケナイこと。

 

 

 「自分が見ている」

 

 

 は、少しづつ自分のことを嫌いなっていく自分に、ストップをかける意識。

 

 

 つい意地悪をしてしまいそうになった自分を。仲間につきそうになった嘘を。またぎそうになったゴミを。…

 

 

 踏みとどまった自分。

 

 

 そんな自分は、逆に、少しづつ自分から好かれていく。不思議な感覚。

 

 

 ここぞという時、助けてくれる自分。自分が自分に寄りかかっているような。

 

 

 自画自賛

 

 

 それは決して、誇張や過大評価ばかりではない。

 

 

 自分と向き合い続けてきた自分のプロセスを、讃えようじゃないか。 

 

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ハッピーな夢を

 超絶あたり前の話しだが、行動には結果が伴なう。

 

 

 何かをしたり、言ったり、思ったりすると、その”何か”によって何かが起こり、何もしなかったり、言わなかったり、思わなかったら、その”何も”によって何かが起こる。

 

 

 ということ。

 

 

 仏教ではそれを『身口意(しんくい)』と呼んでいる。「しんくい」というフレーズだけを聴くとつい、ヤクルトの村上がバットを振って真芯でとらえた打球をイメージしてしまうけれど、もちろん全く関係ない。

 

 

 『身』→ やっていること 

 『口』→ 言っていること

 『意』→ 思っていること

 

 

 めちゃくちゃシンプルに言うと、この3つが揃って初めて夢が叶うというようなことを、お釈迦様は言ったとか言わなかったとか。

 

 

 

 生きていると、嘆きたくなるようなことがやたらめったら起こる。

 

 

 ついついその”起こったこと”にだけ目を向けてしまい、嘆く。

 

 

 だけれど、それは、「何か」と「何も」の結果で、そして更にそれは、そこで終わってしまう結果ではなく、もっと先にある結果のプロセスだったとしたらどうだろうか?

 

 

 行動には結果が伴なう。

 

 

 は、

 

 

 結果は、行動の現れ。

 

 

 の、裏返し。

 

 

 『身口意(しんくい)』は、それを僕たちに問いかけてくれている。

 

 

 

 「ヘイッ!お前が今、やっていること、お前が今、言っていること、お前が今、思っていること、その通りの未来をプレゼントしてやるから、忘れるなよッ!」

 

 

 と。

 

 

 

 嘆きそうになったり、嘆いたり、バカにしそうになったり、バカにしたり、めんどくさくなったり、諦めたり…

 

 

 今がそんなだとしたら、未来の自分はどうだろう?

 

 

 『身』→ やっていること 

 『口』→ 言っていること

 『意』→ 思っていること

 

 

 めちゃくちゃシンプルなこの3つ。

 

 

 「どうせなら、ハッピーな夢を叶えたくないかい?」

 

 

 お釈迦様はそんなことを言ったとか言わなかったとか。

 

 

 

出会いと意識と思い込み

 人は多くの場合、自分が意識したことしか受け入れない。

 

 

 目の前に答えが転がっていたとしても、意識しないと気付かない。

 

 

 そんな意識の邪魔をするのは『思い込み』。

 

 

 

 ご多分に漏れず僕もその一人で、食べられない(食べたくない)料理や、読みたくない本、聴きたくない音楽や観たくない映画、やりたくないスポーツや、話したくない人… だらけの毎日を『思い込み』なんて考えることもなく暮らしていた。

 

 

 

 中学3年生の時、骨の病気になって入院した。

 

 

 病室で寝ているだけの毎日で、漫画を読むのも飽きてしまった。

 

 

 あまりにも退屈で、たまたま病室の本棚に置いてあった本を手に取った。本なんて読んだ記憶が無いくらいの僕が。

 

 

 退屈過ぎる時間が、僕の手を伸ばし、本を手にとらせた。

 

 

 忘れもしない。

 

 

 『わが回想のルバング島 - 小野田 寛郎 -』

 

 

 パラパラめくっていくうちに、フィリピンのルバング島終戦を知らずにそのまま約30年間も潜伏し続け、戦い続けた将校の回顧談に引き込まれていった。

 

 

 自分でもびっくりした。

 

 

 「文字ばかりの本なんて無理やし。」

 

 

 なんて思っていたはずなのに。

 

 

 むさぼるように読み、読み終わった時に思った。

 

 

 「もっと何か読んでみたい…」

 

 

 それから僕は、ありとあらゆるジャンルの本を読みまくり、好きな作家やお気に入りの本を見つけ、今でも読書が趣味の一つになっている。

 

 

 「文字ばかりの本なんて無理」という『思い込み』を捨てさせたのは、出会い。

 

 

 出会いは『思い込み』を追い出す。

 

 

 それからも、”出会いのおかげ”を実感する経験を何度もした。

 

 

 食べられない(食べたくない)料理を「食べてみょうかな?」に、聴きたくない音楽を「聴いてみようかな?」に、観たくない映画を「観てみようかな?」に、やりたくないスポーツを「やってみようかな?」に、話したくない人でも「話してみようかな?」に。

 

 

 何かにつれ僕の前に現れてくれる出会いは、「やってみないとわからない」という意識を呼び起こし、『思い込み』を追い出してくれる。

 

 

 

 『わが回想のルバング島 』を書いた小野田 寛郎は、こんな言葉を残している。

 

 

 「先入観は邪魔物。物事は一方向から見ただけでは分からないものです」

 

 

 異なる何かと出会った時、自分の中にある『思い込み』に気が付く。

 

 

 その出会いは、凄いぞ。

 

 

 

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