『辞は達するのみ』
という言葉がある。
なんやかんやがあって、小学2年生に、「それは『辞は達するのみ』やな!」なんて言って去っていく人がいたとしたら、どう思うだろうか?
なんやかんやがあって、アメリカ人に、「それは『辞は達するのみ』やな!」なんて日本語で言って去っていく人がいたら、どう思うだろうか?
そんな人はいないと思うだろうが、いる。僕の周りにも、現在進行形でいる。
オーソライズやコミットメント、コンセンサスやペンディングやフィックスなんていうとんでもカタカナビジネスクソ用語を使いたがる人が。
業者さんと話しをしていて、その業界では当たり前に使われているような言葉を仕入れ、違う場所で嬉しがってそれを使う人が。
どこかの本に書いていた小難しいだけの言葉をイキッて使うことで、自分が高尚な人間であるかのように思えてしまう人が。
そういう人たちに言う。はっきり言ってアホ。はりきって言ってもアホ。
言葉の本来の役割は、知っていることの見せつけあいではなく、相手に意思を伝えることだ。
わかりやすく伝えることが出来る他の言葉があるにもかかわらず、その場に応じた適切な言葉を選ばずに、わざわざ伝わりずらい言葉を選ぶアホ。
言葉の始まりは、歌だった。
人間が人間になる前から、色々なものごとを小鳥のさえずりのように歌にした。
歌では、相手に気づいてもらうまで時間がかかっただろう。もどかしかっただろうと思う。
そのもどかしさが言葉を生んだ。
「自分が言いたい」というエゴではなく、相手に伝えたいという切実な思いが言葉を生んだ。
言葉は、相手に伝えるためにある。
それが、『辞は達するのみ』だ。
歌で伝えるしか術がなく、もどかしさの末に発した言葉と、アホが使う言葉。
それが利己と利他の正体だ。