良かれと思ってやると、不思議と相手にとって迷惑な結果を生む。
「喜ぶと思ってやったのに!」
と、その相手に対してや、周りに対してついつい言いがちだが、その思考自体が相手に対して『良かれ』ではない。
「良かれと思って」は、相手のことを思って行動を起こした時点でもう完結している。良い反応も、悪い反応も、それはおまけでしかない。
反応でイライラしてしまったら、「俺は、相手のことを考えたつもりになっていただけで、自分が認められ、褒められることを期待するあさましい人間でした。」と猛省した方がいい。
『人の為』ほど怪しいものはない。
『人』の『為』に『善』いを合わせると『偽善』になるのも、きっとそういうことなんだろう。
飲食店に関わるようになったきっかけを、多くの人が「お客様に喜んでもらえたから」と言う。本当にそうか?
過去を振り返ると、その振り返りを、途中の都合のいい適当なところで切り取ってしまうけれど、そのもっと向こう側に、本当のきっかけが、きっとあっただろう?
「喜んでもらえた」の、もっともっと先。
海の始まりの湧き水のように、自分の心のとても分かりにくい奥の方に埋もれてしまったような感情… そう、
「うまく、できた。」
を忘れていないか?
「うまく、できた。」
自分で、自分を認めることができたこの感情を、僕たちはつい隠そうとしてしまう。
隠さなくていい。
僕たちは、うまくできたんだ。
何をしてもうまくできなかったのに、ここではうまくできた。
この嬉しさを隠す必要なんてない。
『うまくできた自分』と『喜んでもらえた自分』
始まりは、自分からだ。