マッチョさんの剃刀

人生は、思い出づくりみたいなもの。「やってみて、どうだった?」を繰り返して、色んな経験を楽しんでいこうな!

目標の定点観測【10月Ver.】-節目と区切りの違い-

 10月が終わった。

 

 

 振り返ってみると、今月は何かが始まり、何かが終わり、何かが思うように進まなかった。そんな月だった。

 

 

 10月1日、miraicrewが開設1周年を迎え、2年目がスタートした。

 

 1年前に開設した事業所も、今では多くの人と関わり、日々の仕事が動いている。

 

 

 もちろん、ここまで順調なことばかりではなかった。それでも、1年続けてこられたことは素直に嬉しい。

 

 

 ただ、1周年はゴールではない。1年目に区切りをつけ、2年目という新たな節目に立ったということだと思う。

 

 

 一方で、施設内業務では、これまでお世話になっていた某製作所との請負業務を終了した。

 

 こちらから何度も頭を下げて仕事をいただいた相手に、今度はこちらから終了を申し出る。裏切るような気持ちにもなり、正直、苦しかった。

 

 それでも、施設内業務の今後を考えれば、ここで線を引かなければ中途半端になる。

 

 

 感謝と決断は両立する。

 

 

 そんなことを、今さら思い知らされた。

 

 

 レストラン事業本部では、店舗責任者会議で勉強会を開いた。

 

 資料をまとめ、僕自身が講師となって進行した。最後には、参加者一人ひとりから「明日から何を変える?」という発表も聞き、少しだけ手応えを感じていた。

 

 ところが、その後の動きがめちゃくちゃ薄い。

 

 あれだけ話して、考えてもらったつもりだったのに……。自己満足だったのかと考えると、とてもツライ。

 

 

 いい話で終わることと、現場が変わることは別物。

 

 

 ここは僕自身が、どう届け、どう伝え、どう動かしていくのかを、もう一度考えて動かしていかないといけない。

 

 

 そして、娘のバレーボールチームが春高予選に挑んだ。

 

 準決勝で敗れた時、応援席に向かって礼をする選手たちをみてふと思った。

 

 これは節目なのか、それとも区切りなのか。

 

 そんな問いが、今回のブログを書くきっかけになった。

 

 

 10月は「終わること」と「続くこと」がごちゃごちゃに混ざった月だった。

 

 

 区切りは、そこまでのことを一度終わらせること。

 

 

 節目は、そこから次へ進むための目印。

 

 

 この10月のおかげで、言語化することができた。サンキュー!10月!!

 

 

 大切なのは、その出来事をどう受け止め、次にどうつなげるか。

 

 

 1年目を終えたmiraicrewも、請負業務を終えた施設内業務も、勉強会を終えた店舗責任者たちも。

 

 

 区切りを、ただの終わりにするのか。

 

 それとも、新しい節目にするのか。

 

 

 結局のところ、その先の動き次第なのだと思う。

 

 

思い入れとは。

 以前、「好きになるということ。」というブログを書いた。

 

macchosan.hatenadiary.org

 

  人やチームに関わり続けることで、自然と好きになり、思い入れが生まれてくる。そんな内容の話。

 

 

 そのブログを書いてから5ヶ月が過ぎ、娘のバレーボールチームが、いよいよ高校バレーの集大成である春高全国大会への出場をかけた予選に挑む。

 

 

 試合が目前に迫った今、思うことがある。

 

 

 “思い入れ”は、時間をかけて自然に育つものだけではない。自分から持ちにいくものでもある、と。

 

 

 僕自身、このチームが全国の舞台で戦う姿を見たいと思っているし、見られると本気で思っている。

 

 

 もちろん、僕がコートに立つわけでも、作戦を考えるわけでもない。それでも「どうすれば勝てるんだろう」「何が足りないんだろう」と考えるようになり、遠征にも帯同するようになり、気がつけば貯金のほぼすべてを使い果たしたwww

 

 

 いつしか、ただの応援から、自分もその目標を願うようになった。

 

 

 自分から思いを向けることで、思い入れは膨らむ。いや、膨らませたと言うべきか。

 

 

 

 それは、仕事にも当てはまる。

 

 

 日々の仕事には、思うようにならないことがたくさんある。環境や人員、会社の方針。立場によって見える景色も違えば、抱えている悩みも違う。言いたいことがあるのも当然だと思う。

 

 

 ただ、そんな日々の中でも、自分の店や仕事に目を向けることはできる。

 

 

 店舗日報に目を通して、ひと言コメントを返す。

 

 お客様から届いたWEBアンケートを確認する。

 

 その声をスタッフと共有し、次に生かす。

 

 

 どれも特別なことではない。けれど、そうした小さな行動の中に、自分の店を大切に思う気持ちは表れるのだと思う。

 

 

 忙しい日もあるし、気持ちが乗らない日だってある。いつも前向きでいられるわけでもない。

 

 

 それでも、自分の店を少しでも良くしたい。仲間に成長してほしい。お客様に喜んでもらいたい。

 

 

 そんな思いを、自分から持ち続けようとすることが大切なのではないだろうか。

 

 

 思い入れがあるから、嬉しいこともある。悔しいこともある。思い通りにならなければ、腹も立つ。

 

 

 でも、そうした感情が生まれるのは、それだけ本気で向き合っているからではないだろうか。

 

 

 何かに本気で思い入れるということは、うまくいかなかった時の痛みも引き受けることなのだと思う。

 

 

 

 娘のバレーボールチームは、春高全国大会に出場したことがない。創部以来、挑んでは敗れを繰り返してきた。その悔しささえも、自分自身が持つ思い入れとして引き受けている。

 

 

 そして、その痛みは決して無駄ではないと信じている。

 

 

 思いの強さは、過去に負った痛みの強さと比例する。そして、その痛みの強さは、その後の跳躍力とも比例する。

 

 

 そんな跳躍を、僕は勝手に思い描いている。

 

 

 仕事にも、バレーボールにも。




連載コラム【就労支援とわたし】vol.5『はじめた理由』

 ある日の何気ない会話で、妻から「なぜ福祉事業をやろうと思ったの?」と聞かれた。

 

 そのときは、その質問に何となく答えながら、いつの間にか違う話に流れていた。

 

 でも、なぜか会話が終わった後も、「なぜ、福祉事業をやろうと思ったんだろう?」

と、しばらくそのことばかり考えていた。

 

 

 小学生の頃、学校行事か何かでミュージカルを観る機会があった。演目は『イワンの馬鹿』。

 

 欲のない、一見すると「馬鹿」に見える青年が、最後にはさまざまな困難に打ち勝ち、幸せを手に入れるという物語だった。

 

 高学年になり、なんとなく思春期の入口にいた私たちには、大げさな演技も、子ども向けの演出も、少し幼く感じられたのだと思う。

 

 観劇中も、友達とふざけたりしていた。

 

 でも、同じクラスにいた「カワさん」というあだ名の男の子は違った。

 

 知的障がいのある彼は、目をキラキラさせながら舞台を見つめ、時折歓声を上げるほど、その世界に入り込んでいた。

 

 そして、劇が終わった。

 

 キャスト全員から「今日はありがとう!」という声が響き、幕が下り始めた。

 

 そのとき、カワさんが突然立ち上がった。

 

 今まで見たことがないような笑顔だった。

 

 幕が下りきっても、彼はしばらく拍手を続けていた。

 

 その姿を見て、私は急に恥ずかしくなった。

 

 ふざけて、まともに観ていなかった自分が。

 

 そして同時に、羨ましくなった。

 

 カワさんの心を、あれほどまでに鷲掴みにした劇団の人たちの仕事が。

 

 

 あの日から、何十年も経った。

 

 私はその後、とある居酒屋の店長に心を奪われ、飲食の世界に飛び込んだ。

 

 さらに何年も経ち、50歳が目の前に迫った頃、さまざまな人との交流の中で、福祉事業の現状を耳にする機会が増えた。

 

 そのたびに、あの日のカワさんの姿を思い出していた。

 

 そして、いつしか「自分も挑戦してみたい」と思うようになった。

 

 もちろん、事業として福祉事業を成功させ、企業価値を高めたいという気持ちがないわけではない。

 

 でも、それだけではない。

 

 障がいのある人たちと、本気で向き合いたい。

 

 あの日、カワさんの心を鷲掴みにした劇団の人たちのように。

 

 

 私が福祉事業を始めた理由は、妻に聞かれるまで、自分でもちゃんと言葉にできていなかった。

 

 でも、あの日のカワさんの笑顔だけは、何十年経っても忘れていない。

 

 人の心を動かす仕事は、いつまでも残る。

 

 私がmirai crewでやりたいことも、そこにあるような気がする。

 

 

 

目標の定点観測【9月Ver.】-やっぱりLIVE-

 福岡で泊まったホテルで、チェックアウトするためにエレベーターのボタンを押した。

 

 扉が開いた。

 

 そこに、阪神タイガースの中継ぎピッチャー、桐敷投手が立っていた。

 

 ……訳はない。

 

 

 僕の脳の70%くらいは阪神に支配されている病なので、たぶん、ただの青年が桐敷に見えただけ。

 

 福岡の中心部でもない久留米のビジネスホテルに、桐敷がいるはずがない。

 

 「そんな訳はない」

 

 と自分に言い聞かせながら、桐敷風の青年をチラチラ見ていると、3階で扉が開いた。

 

 そこには数人がヨガマットを敷いてストレッチをしている。

 

 「エレベーター前でなんちゅう奴らや……大学生の部活かな?」

 

 と思っていると、その中の一人が桐敷風青年に、「チワッ!」と言いながら乗り込んできた。

 

 僕は2階で降りる。

 

 チェックアウト前に、水筒に氷を入れるためだ。

 

 2階に到着し、桐敷風青年に会釈をして降りた瞬間。

 

 目の前に、湯浅投手が立っていた。

 

 風ではなく、完全に湯浅。

 

 思わず、「あ、湯浅さん!」と呼び掛けてしまった。

 

 モーニング中年スキンヘッドに突然名前を呼ばれたにもかかわらず、湯浅投手は会釈をしてくれた。

 

 そのまま、「頑張ってください!」と興奮して声をかけてしまった。

 

 湯浅投手は、桐敷風青年改め桐敷投手と一緒に1階へ降りていった。

 

 氷を入れて、僕もロビーへ。

 

 ロビーには阪神の選手がウジャウジャいた。

 

 どうやら、阪神の選手たちが泊まっていたらしい。

 

 久留米には阪神ファンはいない(浦上調べ)。

 

 だからなのか、選手たちは誰の目も気にせず、ロビーで談笑している。

 

 阪神の選手に囲まれた、夢のような時間を堪能……

 

 

 いや、今回、僕が書きたかったのは、阪神の話ではない。

 

 阪神の選手と出会う前日の夜。

 

 僕は、とても素晴らしいお店に出会った。

 

 

 餃子がメインのお店。

 

 電話で予約した時から、受話器の向こうから元気と活気が交錯していて、「なんか、気持ちのいい店だなぁ」と思っていた。

 

 そして実際に店に入ってみると、その仕事ぶりに圧倒された。

 

 

 スタッフ全員が、本気で仕事をしている。

 

 声の出し方。

 

 動き方。

 

 お客さんへの目線。

 

 そして、料理。

 

 オープンキッチンの厨房では、皮から手作り。

 

 その場で皮を伸ばし、包み、焼く。

 

 それを、黙々と、楽しそうに、ホールに指示を出しながら、止まることなく繰り返している。

 

 その餃子にも、僕の固定観念をいくつも壊された。

 

 餃子の皮は、厚めでしっかりしているほうがいいと思っていた。

 

 タネは、野菜より肉感があるほうがいいと思っていた。

 

 肉汁は、あればあるほどいいと思っていた。

 

 全部、違った。

 

 皮はタネにそっと寄り添いながら、焼き目だけはしっかり主張する。

 

 タネは、すべてをペーストの一歩手前まで刻んでいる。

 

 キャベツの甘みを、豚肉が遠くからそっと後押しする。

 

 肉汁より、優しさが溢れてくる。……

 

 ついつい海原雄山みたいになってしまった。

 

 

 これまで数えきれないほどのお店で食事をしてきたけれど、これほど接客と料理の両面で唸ったお店はない。

 

 僕が犬なら、その場でお漏らししていたはず。

 

 接客も、料理も、本気。

 

 その本気が、店全体から伝わってくる。

 

 だから、圧倒された。

 

 そして、食べ終わったあとに思った。

 

 

 自分の本気度はいかがなものか。

 

 

 本気でやっているつもり。

 

 一生懸命やっているつもり。

 

 でも、「つもり」は、自分にしか分からない。

 

 本気は、声や動きや料理や空気になって、相手に伝わって初めて「本気」なのではないか。

 

 頑張っていることが、相手に何も伝わっていなければ、それはまだ「自分の中だけの本気」なのかもしれない。

 

 そんなことを、餃子にいちいちうなずきながら考えた。

 

 やっぱりLIVEに限る。

 

 画面越しでは分からないものがある。

 

 実際にその場所に行って、見て、聞いて、食べて、感じる。

 

 そこでしか出会えないものがある。

 

 

 9月。

 

 自分の本気度を問い直すきっかけに出会った。

 

 人生、何に出会うか分からない。

 

 だから面白い。

 

 接客も、料理も、本気のお店に圧倒された。

 

 

 さて。

 

 自分の本気度はいかがなものか。

 

 ※ちなみに、久留米のホテルのエレベーターで突然Tシャツ姿の桐敷投手を見て、「ん?桐敷かも?」と思えた自分は、絶対に本気の阪神ファンだと確信できた。

 

 

目標の定点観測【8月Ver.】-トンかソクか-

 珍しく、緊迫した空気の中でのミーティング中、営業部次長が「損か得かの話ではなくて!」と言うところを、

 

 

  「トンかソクかの話ではなくて!」

 

 

 と、いきなり「豚足の話ではないんです」と宣言するような言い間違いをして、その場にいた全員の腹筋を崩壊させたことが以前あったけれど、それは置いておいて。

 

 

 今月は、この「損か得か」ということに関して、思うことがあった。

 

 

 仕事中、

 

 「あの人はサボっている」

 

 「自分は一生懸命やっている」

 

 「結局、サボっている人の分まで自分がやっている」

 

 

 という不満の声が上がった。

 

 

 「なんで自分ばっかり……」

 

 

 という不条理感。

 

 

 頑張っている人ほど、そう思うのかもしれない。

 

 自分だけ損をしているような気持ちになる。

 

 

 でも、本当にそうなのだろうか。

 

 

 サボっている人は、確かに目の前では得をしているように見える。

 

 仕事をしない。

 

 楽をする。

 

 誰かがやってくれる。

 

 

 一方で、頑張っている人は、自分の仕事に加えて、人の分まで背負う。

 

 どう考えても損だ。

 

 ……短期的には。

 

 

 でも、時間を少し長くして見てみる。

 

 

 サボる人は、少しずつ信用を失っていく。

 

 「あの人に任せても大丈夫かな」

 

 「また誰かがフォローしないといけないんじゃないか」

 

 

 そんな不安が、周りの中に積み重なっていく。

 

 

 反対に、黙って誰かの分まで支えている人には、

 

 「あの人なら大丈夫」

 

 「あの人に任せたい」

 

 

 という信用が積み重なっていく。

 

 

 目の前だけを見れば、損をしているように見える。

 

 

 でも、長い目で見ると、得ているものが全然違う。

 

 

 給料には、すぐには表れない。

 

 評価にも、すぐには表れない。

 

 

 でも、「信用」という目に見えない資産は、少しずつ積み上がっていく。

 

 

 だから僕は、不満の声を上げた人に、「『損か得か』を考える時に、時間軸も一緒に考えてみようか」と言って説明した。

 

 

 今日だけを見れば損。

 

 でも、その先は?

 

 1週間後は?

 

 1ヶ月後は?

 

 もっと先は?

 

 その行動を続けた先に、自分には何がある?

 

 

 そう考えると、同じ出来事でも見え方が変わってくる。

 

 

 もちろん、何でも我慢して、人の尻拭いばかりすればいいという話ではない。

 

 

 改善すべきことは改善しなければいけないし、頑張る人ばかりに負担が偏る組織は健全ではない。

 

 

 ただ、「自分だけ損をしている」と感じた時に、一度だけ視点を変えてみる。

 

 

 自分は何を失っているのか。

 

 そして、何を積み上げているのか。

 

 

 損得は、目の前の出来事だけでは決まらない。

 

 

 そう考えると、「損か得か」を嘆くより、「トンかソクか」で笑い飛ばした方が、やっぱり「得」なのかもしれない。

 

 

第17回あなたの「おいしい記憶」をおしえてください。コンテスト落選作品『味のバトン』

 母は、認知症の進行とともに、台所に立たなくなった。かつては毎日のように包丁を握り、家族の食卓を支えていたが、その姿を見ることは次第になくなっていった。

 

 実家では、姉が二人の息子と暮らしながら、母の生活を支えていた。私が実家を離れてからも、母の日常は姉の手によって守られていた。

 

 その年のお盆、私は妻と三人の娘を連れて実家に帰省した。久しぶりに家族が顔をそろえ、居間には子どもたちの声が響いていた。

 

 仏壇に手を合わせ、皆で食卓を囲む準備をしていると、ふと胸の奥に浮かんだ思いがあった。食事を待つ時間の中で、私は思い切って口にした。
 

 「おかあちゃんの玉子焼きが、久しぶりに食べたいな」

 

 一瞬、場が静まり返った。すると妻が、私の言葉を受けるように言った。

 

 「私も、おかあちゃんの玉子焼きが食べたい。」
 

 

 それをきっかけに、「それがいい」「あれは忘れられない」と声が重なった。母の料理は数多くあったはずなのに、なぜか記憶は、同じ一品へと集まっていった。

 

 母は少し迷いながらも台所に立った。「できるかな」と言いながら卵を割り、箸でかき混ぜる。何個使ったのか分からないほど卵を重ねた、とんでもなく分厚い玉子焼きだった。切り分けてもなお存在感があり、家族の人数分をしっかり満たす、昔から変わらない母の玉子焼きだった。

 

 皿に盛られた玉子焼きは、瞬く間になくなった。

 

 「もう一切れ」
 「まだある?」
 

 次々に箸が伸び、何度も焼き直してもらった。娘たちも無言で食べ続け、その様子を、母はどこか誇らしげに眺めていたように思う。

 

 数日後、母は施設に入り、その後、入退院を繰り返した。やがて一年も経たないうちに亡くなった。振り返れば、あの日の玉子焼きが、母の最後の手料理だった。

 

 

 現在、妻が作る玉子焼きの味は、不思議なほど母のものと重なる。似ているという表現では足りない。ひと口食べると、自然と記憶が呼び起こされ、心が落ち着く。

 

 母から作り方を教わったわけではない。分量や手順を受け継いだわけでもない。それでも、味は確かにそこにある。

 

 「今日、何がいい?」と聞かれると、私はいつも「玉子焼き」と答える。それは母の思い出を求めているからではない。妻の玉子焼きが、今の我が家の味として、素直においしいからだ。

 

 

 料理は、人の記憶をつなぐ。言葉にしなくても、時間や想いを受け渡していく。母から妻へ、そしていつか娘たちへ。あの日の玉子焼きは、終わりの味ではなかった。

 

 今も食卓に並び続ける、味のバトンである。

 

 

目標の定点観測【7月Ver.】-個か、組織か。-

 7月、FIFAワールドカップ2026を観ながら、考えていたことがある。

 

 

 「個の力と、組織力。どちらが大切なのか。」

 

 

 大会を観ていると、どうしても個の力に目がいく。

 

 

 メッシがいる。

 エムバペがいる。

 ハーランドがいる。

 

 

 一人で局面を変えてしまう選手がいるチームは、やっぱり強い。

 

 圧倒的なスピード。

 誰にも止められない突破力。

 一瞬でゴールを奪ってしまう決定力。

 

 

 「結局、最後は個か。」

 

 

 ワールドカップを観ながら、僕の気持ちの天秤は、“個”の方へ圧倒的に傾いていた。

 

 どれだけ組織が整っていても、最後に局面を打開するのは個人。

 

 

 そんなふうに思っていた。

 

 

 ところが、決勝のスペインを観て、その天秤がぐっと反対側へ傾いた。

 

 スペインにも、もちろん個の力はある。

 

 でも、誰か一人が何とかするというより、選手一人ひとりが自分の役割を理解し、ボールがどこにあっても、次に誰が動くのかがつながっている。

 

 一人ひとりの能力を足し算するのではなく、組織として掛け算になっている。

 

 

 そのサッカーを観ていて、「ああ、組織って、こういうことか」と思った。

 

 

 もちろん、個が大切ではないという話ではない。

 

 

 メッシがいる。

 エムバペがいる。

 ハーランドがいる。

 

 

 そういう「個」は、間違いなくチームを強くする。

 

 でも、個の力だけでは届かない場所がある。

 

 そして、組織が整っているからこそ、個の力も最大限に生きる。

 

 

 仕事も同じだ。

 

 

 ものすごく能力の高い人が一人いるだけでは、組織は強くならないし、成長もしない。

 

 

 その人がいなくなった瞬間に、全部が止まってしまうなら、それは強い組織とは言えない。

 

 

 一人ひとりが自分の役割を理解している。

 

 誰かが困っていれば、自然に支えられる。

 

 それぞれが違う力を持ちながら、向かう方向は同じ。

 

 その中に、突出した「個」がいる。

 

 

 そんな組織が強いのだと思う。

 

 

 僕自身、これまで“個の力”を重要視してきた。

 

 

 頑張る人を評価したいし、一人ひとりの力を伸ばしたい。

 

 

 でも、今回のワールドカップを観ていて、少し考え方が変わった。

 

 

 個を育てることと、組織を育てること。

 

 

 どちらかではない。

 

 

 個が生きる組織をつくる。

 組織が個をさらに強くする。

 

 

 そんな関係をつくることが大切なのだと思う。

 

 

 ワールドカップが終わり、僕の気持ちの天秤は、少し「組織」の方に傾いた。

 

 いや、正確には、

 

 「個の力を最大限に生かすためにこそ、組織が大切」

 

 というところに落ち着いた。

 

 

 一人ではできないことも、誰かとならできる。

 

 一人ひとりの力がつながれば、自分一人では想像もしなかった場所まで行ける。

 

 

 何からでも学べるなぁ。

 

 日々是学日。

 

 

連載コラム【就労支援とわたし】vol.4『笑顔が増えたね。』

 宮沢賢治の『注文の多い料理店』の序文、

 

 

 わたしたちは、氷砂糖をほしいくらゐもたないでも、きれいにすきとほつた風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。

 またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かはつてゐるのをたびたび見ました。

わたくしは、さういふきれいなたべものやきものをすきです。 

 

 

 という一節。

 

 私はこの文章を、ことあるごとに読み直している。自分への戒めにしているだけではなく、周りにも半ば強引に勧めたりしている。

 

 お金があるとか、立派なものを持っているとか、そういうことだけが豊かさではない。人は、ものの見方や、誰と過ごすかによって、同じ景色でもまったく違って見えることがあるのだと思う。

 

 

 先日、mirai crewで働く支援員スタッフから、こんな話を聞いた。

 

 「娘に、『お母さん、mirai crewで働くようになってから、笑顔が増えたね』って言われたんです。」

 

 その話を聞いて、私はたまらなく嬉しい気持ちになり、少し泣いた。

 

 もちろん、仕事だから大変なこともある。悩むこともあるし、思うようにいかないこともある。それでも、家に帰ったとき、子どもから「笑顔が増えた」と言われる仕事であるなら、それはとても幸せなことではないだろうか。

 

 

 就労支援は、利用者さんのためにある。

 

 それは間違いない。

 

 でも、利用者さんを支える支援員が、疲れ切って笑えなくなってしまう場所では、良い支援は続かない。

 

 利用者さんの小さな成長に、こちらが励まされることがある。何気ない会話に、肩の力が抜ける日もある。現場では、与える側と受け取る側に境界線が無い時間が存在する。

 

 利用者さんのために始まった一日が、気がつけば、そこで働く人の笑顔を増やしている。誰かの役に立とうとした時間が、自分の家族との時間まで豊かにしている。

 

 「お母さん、笑顔が増えたね。」

 

 私は、この一言に、この仕事の全部が詰まっているような気がした。

 

 宮沢賢治のいう、「きれいにすきとほった風」や「桃いろのうつくしい朝の日光」とは、こういうことなのかもしれない。

 

 特別なものではない。

 

 けれど、毎日の中にちゃんとある、小さくて、確かな豊かさ。

 

 

 mirai crewが、利用者さんにとっても、働く人にとっても、そんな景色が少しずつ増えていく場所でありたいと、私は思っている。

 

 


 

そこから何が見えますか?

 毎日、お客様からWebアンケートが届く。

 

 

 先日、こんな内容があった。

 

 「…営業開始時間なのに、焼き鳥のほとんどが品切れでした。…」

 

 

 こういう気になるアンケートを見ると、僕はすぐに社内SNSへ投稿する。

 

 「何があったのか、確認してほしい。」

 

 

 管理者はすぐに動いてくれる。

 

 「皮だけが品切れでした。」

 「いや、他の焼き鳥は注文できていました。」

 「伝票を見る限り、お客様の勘違いでは?」

 

 

 そんなやり取りが続いた。

 

 もちろん、それも大事だ。

 

 事実を確認することは必要。

 

 

 でも、僕が知りたかったのは、そこではない。

 

 誰が悪いのか。でも、お客様が間違っているのか。でもない。

 

 せっかくいただいた声を、ただの指摘で終わらせたくないだけだ。

 

 

 やり取りが続く中、一人がこんな仮説を立てた。

 

 「もしかすると、品切れ登録の仕方で、他の焼き鳥まで注文できない状態になったのでは?」

 

 

 本社で試してみると、本当に同じ現象が起きた。

 

 結局、その日のお店で何が起きていたのかは断定できなかった。

 

 

 でも、一つだけ確かなことが分かった。

 

 

 他の店でも起こり得る。

 

 

 だから、全店へ注意喚起をしよう、という話になった。

 

 

 ここで大事なのは、誰が悪かったかではない。

 

 一通のお客様アンケートを、”クレーム”と捉えるのか、”改善のヒント”と捉えるのか。

 

 その違いだ。

 

 

 人は指摘を受けると、防衛本能が働く。

 

 過剰に働かせてしまう人も少なくない。

 

 「自分は悪くない。」

 「違います。」

 「そんな事実はありません。」

 

 そんな気持ちはよく分かる。

 

 でも、その瞬間に見えなくなるものがある。

 

 

 “本当の原因”だ。

 

 

 営業統括部長は、僕の投稿を受けて、最後にこう締めくくってくれた。

 

 

 「責任の追及じゃない。原因の追究な!」

 

 

 似ているようで、全然違う。

 

 責任を追及すると、人は構える。

 原因を追究すると、人は考える。

 

 そして、組織は前に進む。

 

 

 人は、答えを探そうとすると、「正しいか、間違っているか。」を見ようとする。

 

 でも、本当は、見る前に、「そこから何が見えるか。」を考えないといけない。

 

 

 責任を探すより、原因を探す。

 正しさを守るより、学びを拾う。

 

 

 同じ出来事でも、そこから受け取るものは、人それぞれ違う。

 

 だから共有する。

 

 共有して、工夫して、改善する。

 

 そうやって、共通の価値観はつくられていく。

 

 

 声は見えない。

 でも、届く。

 

 声は見えない。

 でも、広がる。

 

 

 そんな声を、大切にしていく組織でありたい。



嬉しい五文字

 (株)入船サポートの1期目が終わった。

 

 

 昨年10月に開業した就労継続支援A型事業所【mirai crew】の1期目を振り返る懇親会を開き、利用者さんやスタッフみんなで食事を囲んだ。

 

 

 事前アンケートで、「発表を希望しますか?」という項目を設けてみたところ、5名の利用者さんが、「発表したい」と手を挙げてくれた。

 

 

 人前で話すというだけでも勇気がいる。

 

 

 自己紹介をする人。

 

 これからの目標を宣言する人。

 

 「ここが好きで、毎日が楽しいです」と、自分の言葉で思いを伝えてくれる人。

 

 

 一人ひとりの言葉に、その人らしさがあって、何度も胸が熱くなった。

 

 

 その中で、耳の聞こえない利用者さん、Iさんも前に立った。

 

 

 「この中で、私だけ耳が聞こえません。」

 

 

 そう話したあと、

 

 

 「ゆっくり話してもらえれば、口の動きで何を言っているか分かります。でも、手話だともっと話ができます。」

 

 

 そう言って、「おはよう」「こんにちは」「さようなら」など、簡単な手話をみんなに教えてくれた。

 

 

 発表が終わったあと、僕はIさんに尋ねた。

 

 

 「Iさんが、一番言われてうれしい言葉は何ですか?」

 

 

 その言葉の手話を教えてもらい、最後にみんなで言葉をプレゼントしたいと思ったからだ。

 

 

 するとIさんは、少しも迷うことなく答えた。

 

 

 「"ありがとう"です。」

 

 

 その瞬間だった。

 

 

 「あ!」

 

 

 と思わず声が出た。

 

 

 「じゃあ、その手話を教えて。」

 

 

 そう口にするまでの、ほんのコンマ数秒。

 

 

 僕の頭の中では、

 

 「一番言われてうれしい言葉、“ありがとう”。」

 

 という言葉が、何度も何度も繰り返されていた。

 

 

 Iさんのこれまでの人生を、僕は知らない。

 

 だから、これは勝手な想像なのかもしれない。

 

 

 それでも僕は、耳が聞こえないことで、これまで誰かのサポートを受けながら生きてきたIさんは、「ありがとう」と言われるより、「ありがとう」と伝える方が多かったのではないか、と感じた。

 

 

 もしかすると、「ありがとう」と口にするたびに、心の奥が少しだけ乾く自分を感じていたのかもしれない。

 

 

 誰かの役に立ちたい。

 

 誰かに必要とされたい。

 

 

 事業所を訪ねて来て、「働きたい」と口にしたその言葉の奥には、そんな願いがあったのではないか。

 

 

 だからこそ、「一番言われてうれしい言葉は、“ありがとう”です。」というその一言が、僕の胸に深く残った。

 

 

 僕は教えてもらった通り、胸の前に左手を置き、右手を下げて上げる動きをしながら、大きく口を開けて言った。

 

 

 「ありがとう。」

 

 

 Iさんは、ニコッと笑って、何度もうなずいた。

 

 

 その笑顔を見ていたら、この1期目を振り返る会だったはずなのに、僕の方が大切なことを教えてもらった気がした。

 

 

 「ありがとう」は、誰かから言われることで、「自分は誰かの役に立てた」と、感じられる言葉でもある。

 

 

 だから、嬉しい。

 

 

 たった五文字なのに、不思議なくらい人の心を温かくする。

 

 

 僕は、みんなの方を改めて向いて、Iさんに教えてもらった通り、胸の前に左手を置き、右手を下げて上げ、大きく口を開けて言った。

 

 

 「ありがとう。」

 

 

 一つ目は、利用者さんみんなに。

 

 

 「ありがとう。」

 

 

 二つ目は、働いてくれるスタッフたちに。

 

 

 「ありがとう。」

 

 

 そして、三つ目は、たくさんの人に支えられながらも、なんとか歩いてきた自分のために、言った。



目標の定点観測【6月Ver.】-約束と未来-

 長年連れ添ってきた紙の手帳とサヨナラした。

 

 

 何年も使い、「この形式の手帳が一番使いやすい」と気に入っていたし、「なんとなく書きたい…」という気持ちもあって、なかなか離れられなかった。

 

 

 ところが、周りから何度も言われる。

 

 

 「Googleカレンダー、めちゃくちゃ便利ですよ」と。

 

 

 それなら…と、ふとした拍子に乗り換えることにした。

 

 

 すると、驚いた。

 

 

 便利も便利。便利オブ便利ではないか。

 

 

 「なぜもっと早く使わなかったんだ…」

 

 

 過去の自分を思い切りののしりたくなるくらいの便利さだった。

 

 

 仕事でもプライベートでも、予定がすべてスマホで確認できる。

 

 

 出先で、「今、手帳がないので後で確認します」なんてこともない。

 

 

 予定と予定の間の時間も一目で分かるから、隙間時間に読書をしたり、溜まっていた仕事を片付けたりできる。

 

 

 タスク管理もできるので、「また今度やろう」と何度も先送りしてきた案件の、先延ばしも短くなった。

 

 

 そして、気づいてしまった。

 

 

 僕は、予定を入れること自体を楽しんでいる。

 

 

 空いている時間を見ると、何か予定を入れたくなる。

 

 この時間なら、あの人に会いに行けるかもしれない。

 

 この時間なら、何か面白いことができるかもしれない。

 

 

 夜空に星を探すように、Googleカレンダーの空白に予定を求めている自分がいた。

 

 

 「忙しいなぁ…」

 

 

 なんて言いながら、心のどこかで思っている。

 

 

 「未来に予定があるって、なんて幸せなんだろう」と。

 

 

 こんな幸せなことを、“予定”なんて味気ない言い方で呼ぶのは、もったいない気がした。

 

 

 だから僕は、“予定”を“約束”と言い換えることにした。

 

 

 約束と呼ぶだけで、少しワクワクする。

 

 

 人生は、ワクワクする方を選んだ方がいい。

 

 

 来週、あの人と会う。

 

 来月、あそこへ行く。

 

 今度、一緒にご飯を食べる。

 

 

 そんな約束が一つ入るだけで、人は少し先の未来を楽しみにできる。

 

 

 「そこまで頑張ろう」

 

 

 そんな小さなエネルギーが湧いたりもする。

 

 

 考えてみれば、僕たちは約束に支えられて生きている。

 

 

 子どもの試合を観に行く約束。

 

 仲間と飲みに行く約束。

 

 家族で出かける約束。

 

 

 「また来週」と誰かと交わす約束。

 

 

 そして、自分と交わす、一人でゆっくりする約束。

 

 

 約束は、未来に置いておく小さな希望だ。

 

 

 その希望があるから、今日を少し頑張れたりもする。

 

 

 Googleカレンダーを使い始めて気づいた。

 

 

 僕は約束(予定)を管理する以上に、未来に、小さな楽しみを並べたかったのだ、と。

 

 

 そんなことを考えた6月だった。




目標の定点観測【5月Ver.】-奥歯から教わったこと-

 5月に、ひとつ大事なものを失った。

 

 

 奥歯である。

 

 

 正確には、失ったというより抜かれた。

 

 奥歯が痛くて歯医者に行ったところ、「割れていますね」と言われた。

 

 「アブドーラ・ザ・ブッチャーの額じゃないのだから」なんて言う間もなく、そのまま抜歯することになった。

 

 そして今もまだ、右上の奥歯が一本ない状態で生活している。

 

 

 正直、最初は軽く考えていた。

 

 奥歯が一本なくなったくらいで何が変わるのか。左もあるし、前歯も健在。生きていく上で大きな影響なんてないだろうと思っていた。

 

 

 ところが、これがとんでもなく不便だった。

 

 

 食事のたびに左側へ食べ物を寄せる。無意識に噛もうとして、「あ、そこ無かった」となる。

 

 もっと奥で噛もうとすると、抜けた場所に食べ物が入り込み激痛が走る。

 

 前歯に至っては、見た目担当なのかと思うほど咀嚼に役立たない。

 

 失って初めて気づく。

 

 奥歯、めちゃくちゃ働いていた。

 

 たかが歯。

 

 されど歯。

 

 

 そんなことを考えさせられた5月だった。

 

 考えてみると、これは歯だけの話ではない。

 

 仕事もそうだ。

 

 毎日当たり前のように顔を合わせる仲間。

 

 当たり前のように来てくださるお客様。

 

 当たり前のように動いてくれているスタッフ。

 

 当たり前のように続いている取引先との関係。

 

 悲しいかな、失ってからその存在の大きさに気づくことがある。

 

 家庭も同じだ。

 

 家族がいてくれること。

 

 健康でいられること。

 

 何気なく過ごしている日常。

 

 それらは全部、当たり前ではない。

 

 むしろ、本当に大切なものほど普段は見えにくい。

 

 奥歯みたいなものかもしれない。

 

 ある時は気にも留めないのに、なくなった瞬間に存在感を発揮する。

 

 だから本当は、失う前に気づきたい。

 

 感謝も、労いも、「いてくれて助かる」という言葉も、無くなってからでは遅い。

 

 

 もちろん人間だから忘れる。

 

 僕もきっとまた忘れる。

 

 だから時々こうして、奥歯一本に教えられるのだろう。

 

 

 失ってから気づくのではなく、失う前に気づける人でいたい。

 

 それが、5月に奥歯から教わったことだ。

 

 

 とはいえ。

 

 やっぱり奥歯はあった方がいい。

 

 もちろん、人も同じ。



好きになるということ。

 三女が、高校へ進学して2ヵ月が経とうとしている。



 中高一貫の学校なので、いわゆる“そのまま進学”なのだが、やっぱり中学の時とは違うことが多い。



 中学のバレー部は、創部一年目だった。



 先輩がいない。



 だから、子どもたちも、親たちも、全部がゼロからだった。



 どんなチームになるのかも分からない。

 誰がどんな子なのかも分からない。



 それでも、練習を観に行き、手伝いをし、試合で応援し、一緒に悔しがって、一緒に喜んでいるうちに、自分の子どもだけではなく、他のメンバーのことも自然と好きになっていった。



 出来なかったことが出来るようになっていく。

 その一人一人の姿を見ているうちに、思い入れが深くなっていった。



 だから、本気で応援できた。



 ところが高校になると、そこに先輩たちがいる。


 人数も増える。

 顔と名前も一致しない。



 正直、最初は少し距離を感じていた。



 でも、そんな状態では、本気で応援できない気がした。



 だから僕は、時間が許す限り、練習試合を観に行くようにした。


 行ける時は、できるだけ行く。



 もはや、“現場に必ずいる宮沢りえのお母さん”みたいな状態。(分かる人いるよな?)



 行くたびに、名前を覚える。

 行くたびに、特徴を知る。

 行くたびに、思い入れが深くなる。



 そして、芽生えた。


 「このチームが好き」という気持ちが。



 
 好きになることを、“自然に訪れるもの”だと思っている人は多い。



 春になれば桜が咲くように、気づけば好きになっていた、と。



 もちろん、そういう出会いもあるのだろう。


 でも多くの場合、好きになるには“会いに行く行動”が必要だったりする。



 現場に行く。

 顔を見る。

 名前を知る。

 会話をする。

 応援する。



 その積み重ねの中で、感情は育っていく。


 「好き」は、突然降ってくるものではなく、自分で育てていくものなのだと、僕は思っている。



 

 それは仕事でも同じだ。



 最初は興味がなかった人や場所だったとしても、関わる量が増えると、少しずつ見え方が変わる。


 理解が増える。

 思い入れが増える。



 すると、不思議と愛着が生まれる。



 好きになるとは、量を重ね、存在を知り、思い入れを深める中で芽生える気持ちだ。



 自分で種を撒く。


 そして、水をやるように関わり続ける。



 好きになるということは、“関わり続けた先”に生まれる感情なのだと、そこらかしこの中心まで出かけて行って、僕は叫ぶ。



目標の定点観測【4月Ver.】-営業でできている-

 4月を振り返ると、「営業」という言葉が頭に浮かぶ。

 


 正直に言うと、僕はずっと「営業が苦手」だと思っていた。

 


 売り込むのも得意ではなく、飲食業界に長くいても、“営業マンっぽい仕事”をどこか避けて歩んできた。

 


 ところが、就労支援事業を始めて気づいた。

 


 営業しないと、何も始まらない。

 


 ……いや、始める前に気づいておけよ、という話なのだが。

 


 開業して、チラシを作って、ホームページを整えたら、自然と問い合わせが来て、仕事も利用者さんも集まる。

 


 そんな都合のいい未来を、どこかで想像していた。

 


 そんなわきゃあない。(タモリ調)

 


 焦り散らかした僕は、腹を括った。

 


 苦手だとか言っていられない。

 


 「開業したばかりで、何もありません。でも、こうやってご機嫌な責任者が待っています。ぜひ利用者さんを紹介してください」

 


 みたいなことを言いながら、相談支援専門員のいる事業所を訪問して回った。

 


 それしか方法がなかったから、それをやった。

 


 すると少しずつ、利用者さんが来てくれるようになった。

 


 そんな中、一人の耳の不自由な利用者さんが来られた。

 


 施設外就労先のお惣菜店で働きたいという希望だった。

 


 でも体験をしてみると、コミュニケーションの難しさから、その店舗で働くのは厳しいという判断になった。

 


 「せっかく来てくれたのに、断るしかないか…」

 


 そうなりかけた時、思った。

 


 だったら、施設内で働ける仕事を作ろう、と。

 


 その利用者さんが、とても素直で、働く意欲に満ちていると、サービス管理責任者から聞いていたからだ。

 


 4月1日スタートを目指して準備を進め、仕事の段取りも整った。

 


 ……ところが、スタート10日前になって、その仕事がキャンセルになった。

 


 頭が真っ白になった。

 


 利用者さんには、「4月から働けます」と伝えている。

 


 焦った。

 


 事業所の中を、「どうしよう!」と叫びながら走り回った。

 


 120周ほど走り回ってから、また腹を括った。

 


 テレアポするしかない。

 


 仕事を外に出していそうな会社に電話をかけまくり、「とにかく一度会ってください」とお願いした。

 


 同情するより、仕事をくれ状態だ。

 


 そうやって、なんとか4月から施設内就労をスタートすることができた。

 


 その経験を通して、気づいた。

 


 "世の中は、営業でできている"と。

 

 

 
 営業とは、単にモノを売ることではない。

 


 自分の想いや価値を相手に伝え、人に動いてもらい、共感してもらうことだ。

 


 営業は、人と人とのコミュニケーションそのものなのだと思う。

 


 「伝える」から、「共感される」へ。

 


 

 4月は、そんなことを身体で学んだ一ヶ月だった。

 


 待っているだけでは、何も始まらない。

 


 だから今は、飲食事業でも福祉事業でも、“外に取りにいく”ことを積極的に推奨し、先導し、扇動している。強要はまだしていない。

 


 怖くても、不器用でも、まずは伝えにいく。

 


 営業とは、そういう“届けようとする意志”のことなのだと思う。



連載コラム【就労支援とわたし】vol.3『「奇跡の人」が教えてくれたこと』

 娘が通う中学の文化発表会を鑑賞した。

 

 この学校は、リベラルアーツ教育と呼ばれる「考える力を育てる教育」に力を入れているようで、演劇もその一環として授業に組み込まれている。

 年に一度、その成果を披露する文化発表会があり、学年ごとにそれぞれ磨き上げた舞台を発表する。

 

 去年もその舞台を観て感動したこともあり、今年も楽しみにしていた。

 

 もちろん娘の学年の演劇も見応えがあり、どちらも素晴らしい舞台だった。

 

 ただ、福祉の仕事をしているからだろうか。私の心を強く揺さぶったのは、ひとつ下の学年が演じた『奇跡の人』だった。

 

 ヘレン・ケラーと家庭教師アニー・サリヴァンの物語である。

 

 目も見えず、耳も聞こえず、言葉も持たない少女ヘレン。

 

 世界とつながる術を持たない彼女に、サリヴァン先生は何度も、何度も、諦めずに向き合い続ける。

 

 そして有名な「水」の場面。

 

 井戸のポンプから流れる水に触れながら、手のひらに刻まれる指文字。

 

 その瞬間、ヘレンの中で「物には名前がある」という世界の扉が開く。

 

 舞台の上では中学生たちが演じている。

 

 それでも、その場面では会場が静まり返り、気がつけば私は涙をこらえることもできずにいた。

 

 福祉の仕事をしているからこそかもしれない。

 

 あの場面は、「人が世界とつながる瞬間」を描いているように感じた。

 

 

 少し前、何かの記事を読んでいて、偶然知ったことがある。

 

 世界の人口の約15%、およそ12億人が、何らかの障がいを抱えているという数字だ。

 

 その数字を知ったとき、正直、はっとした。

 

 結局、誰かが困っているときに手を伸ばすこと。

 自分にできることで力になること。

 

 そういうことは、本来「特別なこと」ではないはずだ。

 

 助ける側と助けられる側も、固定された関係ではない。

 

 人は誰でも、状況によってどちらの立場にもなる。

 

 だからこそ、自然に支え合える社会であってほしいと思う。

 

 昔からある「持ちつ持たれつ」という言葉。

 

 あれは、人間社会のとてもシンプルな真理なのかもしれない。

 

 

 就労支援の現場でも、それは同じだ。

 

 誰かの一歩を支えているつもりでも、気がつけば、こちらのほうが教えられていることも多い。

 

 当たり前を、当たり前にできる社会。

 

 微力かもしれないけれど、その一部をつくる仕事をしているのだと思う。

 

 

 文化発表会の舞台を観ながら、そんなことを考えていた。

 

 『奇跡の人』は、ヘレン・ケラーの物語だ。

 

 でも同時に、人が人を信じて関わり続けることの物語でもある。

 

 誰かが誰かの世界の扉を、そっと開く。

 

 就労支援という仕事は、その瞬間に静かに立ち会う仕事なのかもしれない。



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