マッチョさんの剃刀

人生は、思い出づくりみたいなもの。「やってみて、どうだった?」を繰り返して、色んな経験を楽しんでいこうな!

目標の定点観測【8月Ver.】-トンかソクか-

 珍しく、緊迫した空気の中でのミーティング中、営業部次長が「損か得かの話ではなくて!」と言うところを、

 

 

  「トンかソクかの話ではなくて!」

 

 

 と、いきなり「豚足の話ではないんです」と宣言するような言い間違いをして、その場にいた全員の腹筋を崩壊させたことが以前あったけれど、それは置いておいて。

 

 

 今月は、この「損か得か」ということに関して、思うことがあった。

 

 

 仕事中、

 

 「あの人はサボっている」

 

 「自分は一生懸命やっている」

 

 「結局、サボっている人の分まで自分がやっている」

 

 

 という不満の声が上がった。

 

 

 「なんで自分ばっかり……」

 

 

 という不条理感。

 

 

 頑張っている人ほど、そう思うのかもしれない。

 

 自分だけ損をしているような気持ちになる。

 

 

 でも、本当にそうなのだろうか。

 

 

 サボっている人は、確かに目の前では得をしているように見える。

 

 仕事をしない。

 

 楽をする。

 

 誰かがやってくれる。

 

 

 一方で、頑張っている人は、自分の仕事に加えて、人の分まで背負う。

 

 どう考えても損だ。

 

 ……短期的には。

 

 

 でも、時間を少し長くして見てみる。

 

 

 サボる人は、少しずつ信用を失っていく。

 

 「あの人に任せても大丈夫かな」

 

 「また誰かがフォローしないといけないんじゃないか」

 

 

 そんな不安が、周りの中に積み重なっていく。

 

 

 反対に、黙って誰かの分まで支えている人には、

 

 「あの人なら大丈夫」

 

 「あの人に任せたい」

 

 

 という信用が積み重なっていく。

 

 

 目の前だけを見れば、損をしているように見える。

 

 

 でも、長い目で見ると、得ているものが全然違う。

 

 

 給料には、すぐには表れない。

 

 評価にも、すぐには表れない。

 

 

 でも、「信用」という目に見えない資産は、少しずつ積み上がっていく。

 

 

 だから僕は、不満の声を上げた人に、「『損か得か』を考える時に、時間軸も一緒に考えてみようか」と言って説明した。

 

 

 今日だけを見れば損。

 

 でも、その先は?

 

 1週間後は?

 

 1ヶ月後は?

 

 もっと先は?

 

 その行動を続けた先に、自分には何がある?

 

 

 そう考えると、同じ出来事でも見え方が変わってくる。

 

 

 もちろん、何でも我慢して、人の尻拭いばかりすればいいという話ではない。

 

 

 改善すべきことは改善しなければいけないし、頑張る人ばかりに負担が偏る組織は健全ではない。

 

 

 ただ、「自分だけ損をしている」と感じた時に、一度だけ視点を変えてみる。

 

 

 自分は何を失っているのか。

 

 そして、何を積み上げているのか。

 

 

 損得は、目の前の出来事だけでは決まらない。

 

 

 そう考えると、「損か得か」を嘆くより、「トンかソクか」で笑い飛ばした方が、やっぱり「得」なのかもしれない。

 

 

第17回あなたの「おいしい記憶」をおしえてください。コンテスト落選作品『味のバトン』

 母は、認知症の進行とともに、台所に立たなくなった。かつては毎日のように包丁を握り、家族の食卓を支えていたが、その姿を見ることは次第になくなっていった。

 

 実家では、姉が二人の息子と暮らしながら、母の生活を支えていた。私が実家を離れてからも、母の日常は姉の手によって守られていた。

 

 その年のお盆、私は妻と三人の娘を連れて実家に帰省した。久しぶりに家族が顔をそろえ、居間には子どもたちの声が響いていた。

 

 仏壇に手を合わせ、皆で食卓を囲む準備をしていると、ふと胸の奥に浮かんだ思いがあった。食事を待つ時間の中で、私は思い切って口にした。
 

 「おかあちゃんの玉子焼きが、久しぶりに食べたいな」

 

 一瞬、場が静まり返った。すると妻が、私の言葉を受けるように言った。

 

 「私も、おかあちゃんの玉子焼きが食べたい。」
 

 

 それをきっかけに、「それがいい」「あれは忘れられない」と声が重なった。母の料理は数多くあったはずなのに、なぜか記憶は、同じ一品へと集まっていった。

 

 母は少し迷いながらも台所に立った。「できるかな」と言いながら卵を割り、箸でかき混ぜる。何個使ったのか分からないほど卵を重ねた、とんでもなく分厚い玉子焼きだった。切り分けてもなお存在感があり、家族の人数分をしっかり満たす、昔から変わらない母の玉子焼きだった。

 

 皿に盛られた玉子焼きは、瞬く間になくなった。

 

 「もう一切れ」
 「まだある?」
 

 次々に箸が伸び、何度も焼き直してもらった。娘たちも無言で食べ続け、その様子を、母はどこか誇らしげに眺めていたように思う。

 

 数日後、母は施設に入り、その後、入退院を繰り返した。やがて一年も経たないうちに亡くなった。振り返れば、あの日の玉子焼きが、母の最後の手料理だった。

 

 

 現在、妻が作る玉子焼きの味は、不思議なほど母のものと重なる。似ているという表現では足りない。ひと口食べると、自然と記憶が呼び起こされ、心が落ち着く。

 

 母から作り方を教わったわけではない。分量や手順を受け継いだわけでもない。それでも、味は確かにそこにある。

 

 「今日、何がいい?」と聞かれると、私はいつも「玉子焼き」と答える。それは母の思い出を求めているからではない。妻の玉子焼きが、今の我が家の味として、素直においしいからだ。

 

 

 料理は、人の記憶をつなぐ。言葉にしなくても、時間や想いを受け渡していく。母から妻へ、そしていつか娘たちへ。あの日の玉子焼きは、終わりの味ではなかった。

 

 今も食卓に並び続ける、味のバトンである。

 

 

目標の定点観測【7月Ver.】-個か、組織か。-

 7月、FIFAワールドカップ2026を観ながら、考えていたことがある。

 

 

 「個の力と、組織力。どちらが大切なのか。」

 

 

 大会を観ていると、どうしても個の力に目がいく。

 

 

 メッシがいる。

 エムバペがいる。

 ハーランドがいる。

 

 

 一人で局面を変えてしまう選手がいるチームは、やっぱり強い。

 

 圧倒的なスピード。

 誰にも止められない突破力。

 一瞬でゴールを奪ってしまう決定力。

 

 

 「結局、最後は個か。」

 

 

 ワールドカップを観ながら、僕の気持ちの天秤は、“個”の方へ圧倒的に傾いていた。

 

 どれだけ組織が整っていても、最後に局面を打開するのは個人。

 

 

 そんなふうに思っていた。

 

 

 ところが、決勝のスペインを観て、その天秤がぐっと反対側へ傾いた。

 

 スペインにも、もちろん個の力はある。

 

 でも、誰か一人が何とかするというより、選手一人ひとりが自分の役割を理解し、ボールがどこにあっても、次に誰が動くのかがつながっている。

 

 一人ひとりの能力を足し算するのではなく、組織として掛け算になっている。

 

 

 そのサッカーを観ていて、「ああ、組織って、こういうことか」と思った。

 

 

 もちろん、個が大切ではないという話ではない。

 

 

 メッシがいる。

 エムバペがいる。

 ハーランドがいる。

 

 

 そういう「個」は、間違いなくチームを強くする。

 

 でも、個の力だけでは届かない場所がある。

 

 そして、組織が整っているからこそ、個の力も最大限に生きる。

 

 

 仕事も同じだ。

 

 

 ものすごく能力の高い人が一人いるだけでは、組織は強くならないし、成長もしない。

 

 

 その人がいなくなった瞬間に、全部が止まってしまうなら、それは強い組織とは言えない。

 

 

 一人ひとりが自分の役割を理解している。

 

 誰かが困っていれば、自然に支えられる。

 

 それぞれが違う力を持ちながら、向かう方向は同じ。

 

 その中に、突出した「個」がいる。

 

 

 そんな組織が強いのだと思う。

 

 

 僕自身、これまで“個の力”を重要視してきた。

 

 

 頑張る人を評価したいし、一人ひとりの力を伸ばしたい。

 

 

 でも、今回のワールドカップを観ていて、少し考え方が変わった。

 

 

 個を育てることと、組織を育てること。

 

 

 どちらかではない。

 

 

 個が生きる組織をつくる。

 組織が個をさらに強くする。

 

 

 そんな関係をつくることが大切なのだと思う。

 

 

 ワールドカップが終わり、僕の気持ちの天秤は、少し「組織」の方に傾いた。

 

 いや、正確には、

 

 「個の力を最大限に生かすためにこそ、組織が大切」

 

 というところに落ち着いた。

 

 

 一人ではできないことも、誰かとならできる。

 

 一人ひとりの力がつながれば、自分一人では想像もしなかった場所まで行ける。

 

 

 何からでも学べるなぁ。

 

 日々是学日。

 

 

連載コラム【就労支援とわたし】vol.4『笑顔が増えたね。』

 宮沢賢治の『注文の多い料理店』の序文、

 

 

 わたしたちは、氷砂糖をほしいくらゐもたないでも、きれいにすきとほつた風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。

 またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かはつてゐるのをたびたび見ました。

わたくしは、さういふきれいなたべものやきものをすきです。 

 

 

 という一節。

 

 私はこの文章を、ことあるごとに読み直している。自分への戒めにしているだけではなく、周りにも半ば強引に勧めたりしている。

 

 お金があるとか、立派なものを持っているとか、そういうことだけが豊かさではない。人は、ものの見方や、誰と過ごすかによって、同じ景色でもまったく違って見えることがあるのだと思う。

 

 

 先日、mirai crewで働く支援員スタッフから、こんな話を聞いた。

 

 「娘に、『お母さん、mirai crewで働くようになってから、笑顔が増えたね』って言われたんです。」

 

 その話を聞いて、私はたまらなく嬉しい気持ちになり、少し泣いた。

 

 もちろん、仕事だから大変なこともある。悩むこともあるし、思うようにいかないこともある。それでも、家に帰ったとき、子どもから「笑顔が増えた」と言われる仕事であるなら、それはとても幸せなことではないだろうか。

 

 

 就労支援は、利用者さんのためにある。

 

 それは間違いない。

 

 でも、利用者さんを支える支援員が、疲れ切って笑えなくなってしまう場所では、良い支援は続かない。

 

 利用者さんの小さな成長に、こちらが励まされることがある。何気ない会話に、肩の力が抜ける日もある。現場では、与える側と受け取る側に境界線が無い時間が存在する。

 

 利用者さんのために始まった一日が、気がつけば、そこで働く人の笑顔を増やしている。誰かの役に立とうとした時間が、自分の家族との時間まで豊かにしている。

 

 「お母さん、笑顔が増えたね。」

 

 私は、この一言に、この仕事の全部が詰まっているような気がした。

 

 宮沢賢治のいう、「きれいにすきとほった風」や「桃いろのうつくしい朝の日光」とは、こういうことなのかもしれない。

 

 特別なものではない。

 

 けれど、毎日の中にちゃんとある、小さくて、確かな豊かさ。

 

 

 mirai crewが、利用者さんにとっても、働く人にとっても、そんな景色が少しずつ増えていく場所でありたいと、私は思っている。

 

 


 

そこから何が見えますか?

 毎日、お客様からWebアンケートが届く。

 

 

 先日、こんな内容があった。

 

 「…営業開始時間なのに、焼き鳥のほとんどが品切れでした。…」

 

 

 こういう気になるアンケートを見ると、僕はすぐに社内SNSへ投稿する。

 

 「何があったのか、確認してほしい。」

 

 

 管理者はすぐに動いてくれる。

 

 「皮だけが品切れでした。」

 「いや、他の焼き鳥は注文できていました。」

 「伝票を見る限り、お客様の勘違いでは?」

 

 

 そんなやり取りが続いた。

 

 もちろん、それも大事だ。

 

 事実を確認することは必要。

 

 

 でも、僕が知りたかったのは、そこではない。

 

 誰が悪いのか。でも、お客様が間違っているのか。でもない。

 

 せっかくいただいた声を、ただの指摘で終わらせたくないだけだ。

 

 

 やり取りが続く中、一人がこんな仮説を立てた。

 

 「もしかすると、品切れ登録の仕方で、他の焼き鳥まで注文できない状態になったのでは?」

 

 

 本社で試してみると、本当に同じ現象が起きた。

 

 結局、その日のお店で何が起きていたのかは断定できなかった。

 

 

 でも、一つだけ確かなことが分かった。

 

 

 他の店でも起こり得る。

 

 

 だから、全店へ注意喚起をしよう、という話になった。

 

 

 ここで大事なのは、誰が悪かったかではない。

 

 一通のお客様アンケートを、”クレーム”と捉えるのか、”改善のヒント”と捉えるのか。

 

 その違いだ。

 

 

 人は指摘を受けると、防衛本能が働く。

 

 過剰に働かせてしまう人も少なくない。

 

 「自分は悪くない。」

 「違います。」

 「そんな事実はありません。」

 

 そんな気持ちはよく分かる。

 

 でも、その瞬間に見えなくなるものがある。

 

 

 “本当の原因”だ。

 

 

 営業統括部長は、僕の投稿を受けて、最後にこう締めくくってくれた。

 

 

 「責任の追及じゃない。原因の追究な!」

 

 

 似ているようで、全然違う。

 

 責任を追及すると、人は構える。

 原因を追究すると、人は考える。

 

 そして、組織は前に進む。

 

 

 人は、答えを探そうとすると、「正しいか、間違っているか。」を見ようとする。

 

 でも、本当は、見る前に、「そこから何が見えるか。」を考えないといけない。

 

 

 責任を探すより、原因を探す。

 正しさを守るより、学びを拾う。

 

 

 同じ出来事でも、そこから受け取るものは、人それぞれ違う。

 

 だから共有する。

 

 共有して、工夫して、改善する。

 

 そうやって、共通の価値観はつくられていく。

 

 

 声は見えない。

 でも、届く。

 

 声は見えない。

 でも、広がる。

 

 

 そんな声を、大切にしていく組織でありたい。



嬉しい五文字

 (株)入船サポートの1期目が終わった。

 

 

 昨年10月に開業した就労継続支援A型事業所【mirai crew】の1期目を振り返る懇親会を開き、利用者さんやスタッフみんなで食事を囲んだ。

 

 

 事前アンケートで、「発表を希望しますか?」という項目を設けてみたところ、5名の利用者さんが、「発表したい」と手を挙げてくれた。

 

 

 人前で話すというだけでも勇気がいる。

 

 

 自己紹介をする人。

 

 これからの目標を宣言する人。

 

 「ここが好きで、毎日が楽しいです」と、自分の言葉で思いを伝えてくれる人。

 

 

 一人ひとりの言葉に、その人らしさがあって、何度も胸が熱くなった。

 

 

 その中で、耳の聞こえない利用者さん、Iさんも前に立った。

 

 

 「この中で、私だけ耳が聞こえません。」

 

 

 そう話したあと、

 

 

 「ゆっくり話してもらえれば、口の動きで何を言っているか分かります。でも、手話だともっと話ができます。」

 

 

 そう言って、「おはよう」「こんにちは」「さようなら」など、簡単な手話をみんなに教えてくれた。

 

 

 発表が終わったあと、僕はIさんに尋ねた。

 

 

 「Iさんが、一番言われてうれしい言葉は何ですか?」

 

 

 その言葉の手話を教えてもらい、最後にみんなで言葉をプレゼントしたいと思ったからだ。

 

 

 するとIさんは、少しも迷うことなく答えた。

 

 

 「"ありがとう"です。」

 

 

 その瞬間だった。

 

 

 「あ!」

 

 

 と思わず声が出た。

 

 

 「じゃあ、その手話を教えて。」

 

 

 そう口にするまでの、ほんのコンマ数秒。

 

 

 僕の頭の中では、

 

 「一番言われてうれしい言葉、“ありがとう”。」

 

 という言葉が、何度も何度も繰り返されていた。

 

 

 Iさんのこれまでの人生を、僕は知らない。

 

 だから、これは勝手な想像なのかもしれない。

 

 

 それでも僕は、耳が聞こえないことで、これまで誰かのサポートを受けながら生きてきたIさんは、「ありがとう」と言われるより、「ありがとう」と伝える方が多かったのではないか、と感じた。

 

 

 もしかすると、「ありがとう」と口にするたびに、心の奥が少しだけ乾く自分を感じていたのかもしれない。

 

 

 誰かの役に立ちたい。

 

 誰かに必要とされたい。

 

 

 事業所を訪ねて来て、「働きたい」と口にしたその言葉の奥には、そんな願いがあったのではないか。

 

 

 だからこそ、「一番言われてうれしい言葉は、“ありがとう”です。」というその一言が、僕の胸に深く残った。

 

 

 僕は教えてもらった通り、胸の前に左手を置き、右手を下げて上げる動きをしながら、大きく口を開けて言った。

 

 

 「ありがとう。」

 

 

 Iさんは、ニコッと笑って、何度もうなずいた。

 

 

 その笑顔を見ていたら、この1期目を振り返る会だったはずなのに、僕の方が大切なことを教えてもらった気がした。

 

 

 「ありがとう」は、誰かから言われることで、「自分は誰かの役に立てた」と、感じられる言葉でもある。

 

 

 だから、嬉しい。

 

 

 たった五文字なのに、不思議なくらい人の心を温かくする。

 

 

 僕は、みんなの方を改めて向いて、Iさんに教えてもらった通り、胸の前に左手を置き、右手を下げて上げ、大きく口を開けて言った。

 

 

 「ありがとう。」

 

 

 一つ目は、利用者さんみんなに。

 

 

 「ありがとう。」

 

 

 二つ目は、働いてくれるスタッフたちに。

 

 

 「ありがとう。」

 

 

 そして、三つ目は、たくさんの人に支えられながらも、なんとか歩いてきた自分のために、言った。



目標の定点観測【6月Ver.】-約束と未来-

 長年連れ添ってきた紙の手帳とサヨナラした。

 

 

 何年も使い、「この形式の手帳が一番使いやすい」と気に入っていたし、「なんとなく書きたい…」という気持ちもあって、なかなか離れられなかった。

 

 

 ところが、周りから何度も言われる。

 

 

 「Googleカレンダー、めちゃくちゃ便利ですよ」と。

 

 

 それなら…と、ふとした拍子に乗り換えることにした。

 

 

 すると、驚いた。

 

 

 便利も便利。便利オブ便利ではないか。

 

 

 「なぜもっと早く使わなかったんだ…」

 

 

 過去の自分を思い切りののしりたくなるくらいの便利さだった。

 

 

 仕事でもプライベートでも、予定がすべてスマホで確認できる。

 

 

 出先で、「今、手帳がないので後で確認します」なんてこともない。

 

 

 予定と予定の間の時間も一目で分かるから、隙間時間に読書をしたり、溜まっていた仕事を片付けたりできる。

 

 

 タスク管理もできるので、「また今度やろう」と何度も先送りしてきた案件の、先延ばしも短くなった。

 

 

 そして、気づいてしまった。

 

 

 僕は、予定を入れること自体を楽しんでいる。

 

 

 空いている時間を見ると、何か予定を入れたくなる。

 

 この時間なら、あの人に会いに行けるかもしれない。

 

 この時間なら、何か面白いことができるかもしれない。

 

 

 夜空に星を探すように、Googleカレンダーの空白に予定を求めている自分がいた。

 

 

 「忙しいなぁ…」

 

 

 なんて言いながら、心のどこかで思っている。

 

 

 「未来に予定があるって、なんて幸せなんだろう」と。

 

 

 こんな幸せなことを、“予定”なんて味気ない言い方で呼ぶのは、もったいない気がした。

 

 

 だから僕は、“予定”を“約束”と言い換えることにした。

 

 

 約束と呼ぶだけで、少しワクワクする。

 

 

 人生は、ワクワクする方を選んだ方がいい。

 

 

 来週、あの人と会う。

 

 来月、あそこへ行く。

 

 今度、一緒にご飯を食べる。

 

 

 そんな約束が一つ入るだけで、人は少し先の未来を楽しみにできる。

 

 

 「そこまで頑張ろう」

 

 

 そんな小さなエネルギーが湧いたりもする。

 

 

 考えてみれば、僕たちは約束に支えられて生きている。

 

 

 子どもの試合を観に行く約束。

 

 仲間と飲みに行く約束。

 

 家族で出かける約束。

 

 

 「また来週」と誰かと交わす約束。

 

 

 そして、自分と交わす、一人でゆっくりする約束。

 

 

 約束は、未来に置いておく小さな希望だ。

 

 

 その希望があるから、今日を少し頑張れたりもする。

 

 

 Googleカレンダーを使い始めて気づいた。

 

 

 僕は約束(予定)を管理する以上に、未来に、小さな楽しみを並べたかったのだ、と。

 

 

 そんなことを考えた6月だった。




目標の定点観測【5月Ver.】-奥歯から教わったこと-

 5月に、ひとつ大事なものを失った。

 

 

 奥歯である。

 

 

 正確には、失ったというより抜かれた。

 

 奥歯が痛くて歯医者に行ったところ、「割れていますね」と言われた。

 

 「アブドーラ・ザ・ブッチャーの額じゃないのだから」なんて言う間もなく、そのまま抜歯することになった。

 

 そして今もまだ、右上の奥歯が一本ない状態で生活している。

 

 

 正直、最初は軽く考えていた。

 

 奥歯が一本なくなったくらいで何が変わるのか。左もあるし、前歯も健在。生きていく上で大きな影響なんてないだろうと思っていた。

 

 

 ところが、これがとんでもなく不便だった。

 

 

 食事のたびに左側へ食べ物を寄せる。無意識に噛もうとして、「あ、そこ無かった」となる。

 

 もっと奥で噛もうとすると、抜けた場所に食べ物が入り込み激痛が走る。

 

 前歯に至っては、見た目担当なのかと思うほど咀嚼に役立たない。

 

 失って初めて気づく。

 

 奥歯、めちゃくちゃ働いていた。

 

 たかが歯。

 

 されど歯。

 

 

 そんなことを考えさせられた5月だった。

 

 考えてみると、これは歯だけの話ではない。

 

 仕事もそうだ。

 

 毎日当たり前のように顔を合わせる仲間。

 

 当たり前のように来てくださるお客様。

 

 当たり前のように動いてくれているスタッフ。

 

 当たり前のように続いている取引先との関係。

 

 悲しいかな、失ってからその存在の大きさに気づくことがある。

 

 家庭も同じだ。

 

 家族がいてくれること。

 

 健康でいられること。

 

 何気なく過ごしている日常。

 

 それらは全部、当たり前ではない。

 

 むしろ、本当に大切なものほど普段は見えにくい。

 

 奥歯みたいなものかもしれない。

 

 ある時は気にも留めないのに、なくなった瞬間に存在感を発揮する。

 

 だから本当は、失う前に気づきたい。

 

 感謝も、労いも、「いてくれて助かる」という言葉も、無くなってからでは遅い。

 

 

 もちろん人間だから忘れる。

 

 僕もきっとまた忘れる。

 

 だから時々こうして、奥歯一本に教えられるのだろう。

 

 

 失ってから気づくのではなく、失う前に気づける人でいたい。

 

 それが、5月に奥歯から教わったことだ。

 

 

 とはいえ。

 

 やっぱり奥歯はあった方がいい。

 

 もちろん、人も同じ。



好きになるということ。

 三女が、高校へ進学して2ヵ月が経とうとしている。



 中高一貫の学校なので、いわゆる“そのまま進学”なのだが、やっぱり中学の時とは違うことが多い。



 中学のバレー部は、創部一年目だった。



 先輩がいない。



 だから、子どもたちも、親たちも、全部がゼロからだった。



 どんなチームになるのかも分からない。

 誰がどんな子なのかも分からない。



 それでも、練習を観に行き、手伝いをし、試合で応援し、一緒に悔しがって、一緒に喜んでいるうちに、自分の子どもだけではなく、他のメンバーのことも自然と好きになっていった。



 出来なかったことが出来るようになっていく。

 その一人一人の姿を見ているうちに、思い入れが深くなっていった。



 だから、本気で応援できた。



 ところが高校になると、そこに先輩たちがいる。


 人数も増える。

 顔と名前も一致しない。



 正直、最初は少し距離を感じていた。



 でも、そんな状態では、本気で応援できない気がした。



 だから僕は、時間が許す限り、練習試合を観に行くようにした。


 行ける時は、できるだけ行く。



 もはや、“現場に必ずいる宮沢りえのお母さん”みたいな状態。(分かる人いるよな?)



 行くたびに、名前を覚える。

 行くたびに、特徴を知る。

 行くたびに、思い入れが深くなる。



 そして、芽生えた。


 「このチームが好き」という気持ちが。



 
 好きになることを、“自然に訪れるもの”だと思っている人は多い。



 春になれば桜が咲くように、気づけば好きになっていた、と。



 もちろん、そういう出会いもあるのだろう。


 でも多くの場合、好きになるには“会いに行く行動”が必要だったりする。



 現場に行く。

 顔を見る。

 名前を知る。

 会話をする。

 応援する。



 その積み重ねの中で、感情は育っていく。


 「好き」は、突然降ってくるものではなく、自分で育てていくものなのだと、僕は思っている。



 

 それは仕事でも同じだ。



 最初は興味がなかった人や場所だったとしても、関わる量が増えると、少しずつ見え方が変わる。


 理解が増える。

 思い入れが増える。



 すると、不思議と愛着が生まれる。



 好きになるとは、量を重ね、存在を知り、思い入れを深める中で芽生える気持ちだ。



 自分で種を撒く。


 そして、水をやるように関わり続ける。



 好きになるということは、“関わり続けた先”に生まれる感情なのだと、そこらかしこの中心まで出かけて行って、僕は叫ぶ。



目標の定点観測【4月Ver.】-営業でできている-

 4月を振り返ると、「営業」という言葉が頭に浮かぶ。

 


 正直に言うと、僕はずっと「営業が苦手」だと思っていた。

 


 売り込むのも得意ではなく、飲食業界に長くいても、“営業マンっぽい仕事”をどこか避けて歩んできた。

 


 ところが、就労支援事業を始めて気づいた。

 


 営業しないと、何も始まらない。

 


 ……いや、始める前に気づいておけよ、という話なのだが。

 


 開業して、チラシを作って、ホームページを整えたら、自然と問い合わせが来て、仕事も利用者さんも集まる。

 


 そんな都合のいい未来を、どこかで想像していた。

 


 そんなわきゃあない。(タモリ調)

 


 焦り散らかした僕は、腹を括った。

 


 苦手だとか言っていられない。

 


 「開業したばかりで、何もありません。でも、こうやってご機嫌な責任者が待っています。ぜひ利用者さんを紹介してください」

 


 みたいなことを言いながら、相談支援専門員のいる事業所を訪問して回った。

 


 それしか方法がなかったから、それをやった。

 


 すると少しずつ、利用者さんが来てくれるようになった。

 


 そんな中、一人の耳の不自由な利用者さんが来られた。

 


 施設外就労先のお惣菜店で働きたいという希望だった。

 


 でも体験をしてみると、コミュニケーションの難しさから、その店舗で働くのは厳しいという判断になった。

 


 「せっかく来てくれたのに、断るしかないか…」

 


 そうなりかけた時、思った。

 


 だったら、施設内で働ける仕事を作ろう、と。

 


 その利用者さんが、とても素直で、働く意欲に満ちていると、サービス管理責任者から聞いていたからだ。

 


 4月1日スタートを目指して準備を進め、仕事の段取りも整った。

 


 ……ところが、スタート10日前になって、その仕事がキャンセルになった。

 


 頭が真っ白になった。

 


 利用者さんには、「4月から働けます」と伝えている。

 


 焦った。

 


 事業所の中を、「どうしよう!」と叫びながら走り回った。

 


 120周ほど走り回ってから、また腹を括った。

 


 テレアポするしかない。

 


 仕事を外に出していそうな会社に電話をかけまくり、「とにかく一度会ってください」とお願いした。

 


 同情するより、仕事をくれ状態だ。

 


 そうやって、なんとか4月から施設内就労をスタートすることができた。

 


 その経験を通して、気づいた。

 


 "世の中は、営業でできている"と。

 

 

 
 営業とは、単にモノを売ることではない。

 


 自分の想いや価値を相手に伝え、人に動いてもらい、共感してもらうことだ。

 


 営業は、人と人とのコミュニケーションそのものなのだと思う。

 


 「伝える」から、「共感される」へ。

 


 

 4月は、そんなことを身体で学んだ一ヶ月だった。

 


 待っているだけでは、何も始まらない。

 


 だから今は、飲食事業でも福祉事業でも、“外に取りにいく”ことを積極的に推奨し、先導し、扇動している。強要はまだしていない。

 


 怖くても、不器用でも、まずは伝えにいく。

 


 営業とは、そういう“届けようとする意志”のことなのだと思う。



連載コラム【就労支援とわたし】vol.3『「奇跡の人」が教えてくれたこと』

 娘が通う中学の文化発表会を鑑賞した。

 

 この学校は、リベラルアーツ教育と呼ばれる「考える力を育てる教育」に力を入れているようで、演劇もその一環として授業に組み込まれている。

 年に一度、その成果を披露する文化発表会があり、学年ごとにそれぞれ磨き上げた舞台を発表する。

 

 去年もその舞台を観て感動したこともあり、今年も楽しみにしていた。

 

 もちろん娘の学年の演劇も見応えがあり、どちらも素晴らしい舞台だった。

 

 ただ、福祉の仕事をしているからだろうか。私の心を強く揺さぶったのは、ひとつ下の学年が演じた『奇跡の人』だった。

 

 ヘレン・ケラーと家庭教師アニー・サリヴァンの物語である。

 

 目も見えず、耳も聞こえず、言葉も持たない少女ヘレン。

 

 世界とつながる術を持たない彼女に、サリヴァン先生は何度も、何度も、諦めずに向き合い続ける。

 

 そして有名な「水」の場面。

 

 井戸のポンプから流れる水に触れながら、手のひらに刻まれる指文字。

 

 その瞬間、ヘレンの中で「物には名前がある」という世界の扉が開く。

 

 舞台の上では中学生たちが演じている。

 

 それでも、その場面では会場が静まり返り、気がつけば私は涙をこらえることもできずにいた。

 

 福祉の仕事をしているからこそかもしれない。

 

 あの場面は、「人が世界とつながる瞬間」を描いているように感じた。

 

 

 少し前、何かの記事を読んでいて、偶然知ったことがある。

 

 世界の人口の約15%、およそ12億人が、何らかの障がいを抱えているという数字だ。

 

 その数字を知ったとき、正直、はっとした。

 

 結局、誰かが困っているときに手を伸ばすこと。

 自分にできることで力になること。

 

 そういうことは、本来「特別なこと」ではないはずだ。

 

 助ける側と助けられる側も、固定された関係ではない。

 

 人は誰でも、状況によってどちらの立場にもなる。

 

 だからこそ、自然に支え合える社会であってほしいと思う。

 

 昔からある「持ちつ持たれつ」という言葉。

 

 あれは、人間社会のとてもシンプルな真理なのかもしれない。

 

 

 就労支援の現場でも、それは同じだ。

 

 誰かの一歩を支えているつもりでも、気がつけば、こちらのほうが教えられていることも多い。

 

 当たり前を、当たり前にできる社会。

 

 微力かもしれないけれど、その一部をつくる仕事をしているのだと思う。

 

 

 文化発表会の舞台を観ながら、そんなことを考えていた。

 

 『奇跡の人』は、ヘレン・ケラーの物語だ。

 

 でも同時に、人が人を信じて関わり続けることの物語でもある。

 

 誰かが誰かの世界の扉を、そっと開く。

 

 就労支援という仕事は、その瞬間に静かに立ち会う仕事なのかもしれない。



“たった一人”を

 娘が、何かに取りつかれたように編み物をしていた。


 黙々と。
 棟方志功が版画を彫るかのように、ただひたすら毛糸と向き合っている。



 しばらく観察していて、思った。



 あれは、ただ編んでいるのではない。
 “誰かのために”編んでいるのだな、と。

 

 自分用に作る時の空気とは、どこか違う。



 渡したい相手がいて、
 喜ぶ顔を思い浮かべながら、
 一目一目を重ねている人の手に見えた。



 その姿を見ながら、仕事でも同じだなと思った。



 
 企画でも、商品でも、イベントでも、
 うまくいくものには共通点がある。



 誰かを喜ばせたい。
 何かを良くしたい。



 そこから始まっていることだ。



 逆に、なんとなく作られたもの。
 誰に向けたのか分からないものは、やっぱりどこか弱い。



 広く届けたい。
 たくさんの人に売りたい。



 その気持ちはよく分かる。



 でも、最初から広さばかりを追うと、輪郭がぼやける。



 だからこそ、ターゲットとなるお客様を、たった一人にまで絞り込む。



 仕事帰りに疲れているあの人。
 家族との外食を楽しみにしているあの人。
 少し元気をなくしているあの人。



 その一人に、狭く深く届くように考える。



 すると、味も、言葉も、見せ方も、価格も、驚くほど具体的になる。



 そして不思議なことに、
 たった一人に深く届いたものほど、結果的に大きく広がっていく。



 「自分が好きになったから、あの人も気に入ってくれたら嬉しいな」



 そうやって、人づてに。
 口コミで。
 共感で。



 広がっていく。



 広さは、狙うものではなく結果なのだと思う。



 娘の編み物も、きっとそうなのだろう。



 世界中の誰かのためではなく、
 たった一人の誰かのために編んでいる。



 だから、手に熱が宿る。



 「誰を喜ばせたいのか?」



 その“誰”の顔を、思い浮かべる。



 そうやって生まれたものには、不思議と温度が宿る。



 想像は、いつも創造の手前にある。



 心を込めるとは、
 そういうことではないだろうか。



言葉の重心

 就労継続支援A型事業所で、利用者さんを紹介していただくために、近隣の福祉関連事業所へ訪問したり、DMを送ったりしている。



 最近は、支援員のスタッフがテレアポにも挑戦している。



 ただ、これがなかなか簡単ではない。



 電話をかけても、
 つれなく切られたり、
 セールスと勘違いされたり、
 「関係ないです」と言われてしまったり。



 そんなやり取りが続くと、人は少しずつ“守り”に入る。



 失敗の記憶は強い。



 別の部屋でその様子を聞いていると、こんな言い回しが耳に入ってきた。


 「もし必要なければ、送らない方がよろしいですか?」

 

 

 一見、丁寧で気遣いのある言葉に聞こえなくもないが、後ろ足重心で、いつでも逃げられる準備万端の“断りやすい選択肢”を先に差し出している言い方が気になり、スタッフを呼んで伝えた。

 

 

 「その言い方だと、必要な人でも“いらない”って言いやすくなってしまうよ」と。

 

 

 そして、こう言い換えてもらった。

 

 

 「今回もいつものように送らせていただきますので、選択肢としてご相談されたい方がいらっしゃいましたら、お気軽にご連絡ください」

 

 

 しばらくすると、隣の部屋から聞こえてくる空気が変わった。

 

 

 さっきまでとは、明らかに違うやり取り。

 

 

 電話を終えたスタッフが、

 

 

 「全然違う反応が返ってきました」と。

 

 

 言葉は、使い方で変わる。

 

 

 たった一言で、
 人を遠ざけることもあれば、
 人を近づけることもできる。

 

 

 僕自身、これまで何度も言葉で失敗してきたし、今もよく失敗する。

 

 

 何気なく口にした一言で、相手を傷つけてしまったこともあるし、
 逆に、たった一言で救われた経験もある。

 

 

 言葉は、目に見えないけれど、確実に“影響”を持っている。

 

 

 だからこそ、扱い方ひとつで、
 あたたかさにもなるし、鋭さにもなる。

 

 

 今回のスタッフのように、
 ほんの少し言い回しを変えただけで、違う結果を掴めることもある。

 

 

 それはテクニックの話だけではない。
 もっとシンプルな本質の話だと思う。

 

 

 「相手にどう届くか」を想像できているかどうか。

 

 

 その想像力を使うかどうかで、
 言葉の持つ力はまるで違ってくる。

 

 

 ついつい出てしまった一言の後悔は、思っている以上に長く残る。

 

 

 言葉を扱っているということは、
 それだけで可能性でもあり、責任でもある。

 

 

 どうせ使うなら、
 誰かの背中を押せる言葉を選んでいきたい。

 

 

 そんなことを、あらためて感じた。





か弱き子羊たちへ

 ちょっとした憧れだけで、飲食業界に飛び込んだ。

 

 

 はじめて働いたその日、一日中立ちっぱなしで、夜には猛烈な後悔に襲われた。

 

 

 「なんでこんなとこに来てしまったんやろ…」

 

 

 翌朝、腰と足の痛みで目が覚めた。
 それでも、「さすがに1日で辞めるのもな…」と自分に言い聞かせて店に向かった。

 

 

 店には、驚くほど仕事ができる社員たちがいた。
 飲食経験ゼロのポンコツだった僕は、そうするしかなかった笑顔の裏でずっと思っていた。

 

 

 「できるわけがない…」と。

 

 

 うまくいかないことが続くと、人はどうしても“足りない部分”ばかりを見るようになる。
 世の中、思い通りにいかないことの方が多いから、なおさら。

 

 

 だからこそ、本当は“強み”に目を向けた方がいいのかもしれない。

 

 

 ——と、今なら思う。

 

 

 でも正直に言うと、
 あの頃の僕が何を強みにしていたのかなんて、まったく覚えていない。

 

 

 ただ一つ覚えているのは、
 慣れない手つきでネギを切っていて、左手の人差し指を切ったこと。

 

 

 30年経った今でも、その傷だけはしっかり残っている。

 

 

 肝心の“強み”は覚えていないのに、傷だけは残る。
 なんとも皮肉。

 

 

 それでも、数日経ったある朝、
 ふと気づいた。

 

 

 「あれ?腰も足も痛くないぞ」と。

 

 

 慣れ始めていた。

 

 

 できなかったことが、少しずつ普通になっていく。
 特別な何かを掴んだわけではない。
 ただ、続けただけ。

 

 

 苦手を埋めるより、得意を伸ばした方がいい——
 そんな言葉はよく聞く。

 

 

 でも実際は、得意も苦手もよく分からないまま、
 目の前のことをやり続けるしかない時期がある。

 

 

 それで、いい。

 

 

 関わりの中で、自分の良さはあとからぼんやり見えてくる。

 

 

 伸ばした得意も、
 必死に超えようとした壁も、
 その時の自分にはよく分かっていなくても、

 

 

 続けた事実だけは、ちゃんと残る。

 

 

 今、初めての環境に挑んでいる人たちの中にも、いると思う。

 

 

 何食わぬ顔で笑っているように見せながら、
 心の中では「できるわけがない」と呟いている人が。

 

 

 そんな世界中の、か弱き子羊たちに一つだけ伝えたい。

 

 

 

 コマ無し自転車に初めて乗った日のことを、覚えているだろうか?

 

 

 何回も転んで、何回も諦めかけて泣きながら、
 「乗れるわけがない」と思ったあの日のことを。

 

 

 それでも、立ち上がり、
 膝小僧に傷をつくりながら、
 もう一回、もう一回とペダルに足をかけた日を。

 

 

 その後ろで、パパやママは言っていたはず。

 

 

 「大丈夫、乗れるようになるよ」と。

 

 

 あの時の自分と同じ。
 もうみんな、経験しているじゃないか。

 

 

 “できるわけがない”を、“できるようにした”ことを。

 

 

 だから、僕はあの日と同じように、
 パパやママになり変わって、挑戦するみんなの後ろから、でっかい声で言ってやる。

 

 

 「大丈夫、できるようになる!」

 

 

 聞こえるか?ガンバレ!

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目標の定点観測【3月Ver.】

 何げなく目にした広告に、こんな言葉があった。

 

 「守ることは攻めること」

 

 何の広告だったのかは思い出せない。

 でも、この一文だけが、なぜか頭に残り続けている。

 

 

 振り返ってみると、3月は「攻め」の月だった。

 

 

 飲食事業では、インバウンド獲得に向けたプロジェクトチームを立ち上げた。

 リストを作り、テレアポをして、最終的には「担当者が担当者に会う」ことを目的に動いた。

 

 

 企業宴会の獲得についても同じ。

 チームを作り、営業マニュアルを整え、こちらも“関係性づくり”をゴールに据えた。

 

 

 福祉事業でも動いた。

 就労継続支援A型事業所【miraicrew】では、施設内での請負業務をスタートさせるための営業活動。

 支援員のスタッフも、利用者さんの獲得に向けて動いてくれた。

 

 

 振り返ると、いろんな意味で「攻めていた」一ヶ月だった。

 

 

 その中で、ひとつだけ意識していたことがある。

 それは、成果を“手前”に置くこと。

 営業であれば、もちろん契約や獲得は大事。

 でも、それを最初のゴールにしてしまうと、どうしても関係は薄くなる。

 

 

 だから僕は、「関係性をつくること」を手前のゴールに置いた。

 すぐに結果が出なくてもいい。
 でも、次に繋がる関係は残す。

 一過性ではなく、連続性。

 

 

 そんなことを考えていたとき、ふと思い出したことがある。

 

 

 娘が通う学校のバレーボール部の先生が、リベロというポジションについて話してくれた時のことだ。

 

 

 「リベロは守りだけ、と思われがちですが、実は“仕掛けるポジション”なんです。隙をつくって、相手に打たせる。そういう仕掛けを楽しんでほしい」

 

 

 その話を聞いたとき、思わず頷きすぎて首がもげそうになった。

 

 

 守りに見えるものの中に、攻めがある。

 むしろ、本当の攻めは、派手な一手ではなく、
 相手との関係の中で仕掛けていくものなのかもしれない。

 

 

 3月は、そんな“攻め”を積み重ねた一ヶ月だった。

 

 関係性をつくる。
 関係性を続ける。
 関係性を育てる。

 

 すぐに結果を求めるのではなく、
 時間をかけて育てていく。

 

 それもまた、ひとつの攻め方ではないか。

 

 

 あの時見た広告の言葉。

 

 「守ることは攻めること」

 

 何の広告だったのかは思い出せないのに、この一文だけが、頭に残り続けているのは、こういうことか。

 

 自分でした納得の頷きで、今度はしっかり首がもげた。



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