マッチョさんの剃刀

飲食店で働くすべての人が「この仕事を選んで良かった!」と心から思えるように。

目標の定点観測【5月Ver.】-奥歯から教わったこと-

 5月に、ひとつ大事なものを失った。

 

 

 奥歯である。

 

 

 正確には、失ったというより抜かれた。

 

 奥歯が痛くて歯医者に行ったところ、「割れていますね」と言われた。

 

 「アブドーラ・ザ・ブッチャーの額じゃないのだから」なんて言う間もなく、そのまま抜歯することになった。

 

 そして今もまだ、右上の奥歯が一本ない状態で生活している。

 

 

 正直、最初は軽く考えていた。

 

 奥歯が一本なくなったくらいで何が変わるのか。左もあるし、前歯も健在。生きていく上で大きな影響なんてないだろうと思っていた。

 

 

 ところが、これがとんでもなく不便だった。

 

 

 食事のたびに左側へ食べ物を寄せる。無意識に噛もうとして、「あ、そこ無かった」となる。

 

 もっと奥で噛もうとすると、抜けた場所に食べ物が入り込み激痛が走る。

 

 前歯に至っては、見た目担当なのかと思うほど咀嚼に役立たない。

 

 失って初めて気づく。

 

 奥歯、めちゃくちゃ働いていた。

 

 たかが歯。

 

 されど歯。

 

 

 そんなことを考えさせられた5月だった。

 

 考えてみると、これは歯だけの話ではない。

 

 仕事もそうだ。

 

 毎日当たり前のように顔を合わせる仲間。

 

 当たり前のように来てくださるお客様。

 

 当たり前のように動いてくれているスタッフ。

 

 当たり前のように続いている取引先との関係。

 

 悲しいかな、失ってからその存在の大きさに気づくことがある。

 

 家庭も同じだ。

 

 家族がいてくれること。

 

 健康でいられること。

 

 何気なく過ごしている日常。

 

 それらは全部、当たり前ではない。

 

 むしろ、本当に大切なものほど普段は見えにくい。

 

 奥歯みたいなものかもしれない。

 

 ある時は気にも留めないのに、なくなった瞬間に存在感を発揮する。

 

 だから本当は、失う前に気づきたい。

 

 感謝も、労いも、「いてくれて助かる」という言葉も、無くなってからでは遅い。

 

 

 もちろん人間だから忘れる。

 

 僕もきっとまた忘れる。

 

 だから時々こうして、奥歯一本に教えられるのだろう。

 

 

 失ってから気づくのではなく、失う前に気づける人でいたい。

 

 それが、5月に奥歯から教わったことだ。

 

 

 とはいえ。

 

 やっぱり奥歯はあった方がいい。

 

 もちろん、人も同じ。



好きになるということ。

 三女が、高校へ進学して2ヵ月が経とうとしている。



 中高一貫の学校なので、いわゆる“そのまま進学”なのだが、やっぱり中学の時とは違うことが多い。



 中学のバレー部は、創部一年目だった。



 先輩がいない。



 だから、子どもたちも、親たちも、全部がゼロからだった。



 どんなチームになるのかも分からない。

 誰がどんな子なのかも分からない。



 それでも、練習を観に行き、手伝いをし、試合で応援し、一緒に悔しがって、一緒に喜んでいるうちに、自分の子どもだけではなく、他のメンバーのことも自然と好きになっていった。



 出来なかったことが出来るようになっていく。

 その一人一人の姿を見ているうちに、思い入れが深くなっていった。



 だから、本気で応援できた。



 ところが高校になると、そこに先輩たちがいる。


 人数も増える。

 顔と名前も一致しない。



 正直、最初は少し距離を感じていた。



 でも、そんな状態では、本気で応援できない気がした。



 だから僕は、時間が許す限り、練習試合を観に行くようにした。


 行ける時は、できるだけ行く。



 もはや、“現場に必ずいる宮沢りえのお母さん”みたいな状態。(分かる人いるよな?)



 行くたびに、名前を覚える。

 行くたびに、特徴を知る。

 行くたびに、思い入れが深くなる。



 そして、芽生えた。


 「このチームが好き」という気持ちが。



 
 好きになることを、“自然に訪れるもの”だと思っている人は多い。



 春になれば桜が咲くように、気づけば好きになっていた、と。



 もちろん、そういう出会いもあるのだろう。


 でも多くの場合、好きになるには“会いに行く行動”が必要だったりする。



 現場に行く。

 顔を見る。

 名前を知る。

 会話をする。

 応援する。



 その積み重ねの中で、感情は育っていく。


 「好き」は、突然降ってくるものではなく、自分で育てていくものなのだと、僕は思っている。



 

 それは仕事でも同じだ。



 最初は興味がなかった人や場所だったとしても、関わる量が増えると、少しずつ見え方が変わる。


 理解が増える。

 思い入れが増える。



 すると、不思議と愛着が生まれる。



 好きになるとは、量を重ね、存在を知り、思い入れを深める中で芽生える気持ちだ。



 自分で種を撒く。


 そして、水をやるように関わり続ける。



 好きになるということは、“関わり続けた先”に生まれる感情なのだと、そこらかしこの中心まで出かけて行って、僕は叫ぶ。



目標の定点観測【4月Ver.】-営業でできている-

 4月を振り返ると、「営業」という言葉が頭に浮かぶ。

 


 正直に言うと、僕はずっと「営業が苦手」だと思っていた。

 


 売り込むのも得意ではなく、飲食業界に長くいても、“営業マンっぽい仕事”をどこか避けて歩んできた。

 


 ところが、就労支援事業を始めて気づいた。

 


 営業しないと、何も始まらない。

 


 ……いや、始める前に気づいておけよ、という話なのだが。

 


 開業して、チラシを作って、ホームページを整えたら、自然と問い合わせが来て、仕事も利用者さんも集まる。

 


 そんな都合のいい未来を、どこかで想像していた。

 


 そんなわきゃあない。(タモリ調)

 


 焦り散らかした僕は、腹を括った。

 


 苦手だとか言っていられない。

 


 「開業したばかりで、何もありません。でも、こうやってご機嫌な責任者が待っています。ぜひ利用者さんを紹介してください」

 


 みたいなことを言いながら、相談支援専門員のいる事業所を訪問して回った。

 


 それしか方法がなかったから、それをやった。

 


 すると少しずつ、利用者さんが来てくれるようになった。

 


 そんな中、一人の耳の不自由な利用者さんが来られた。

 


 施設外就労先のお惣菜店で働きたいという希望だった。

 


 でも体験をしてみると、コミュニケーションの難しさから、その店舗で働くのは厳しいという判断になった。

 


 「せっかく来てくれたのに、断るしかないか…」

 


 そうなりかけた時、思った。

 


 だったら、施設内で働ける仕事を作ろう、と。

 


 その利用者さんが、とても素直で、働く意欲に満ちていると、サービス管理責任者から聞いていたからだ。

 


 4月1日スタートを目指して準備を進め、仕事の段取りも整った。

 


 ……ところが、スタート10日前になって、その仕事がキャンセルになった。

 


 頭が真っ白になった。

 


 利用者さんには、「4月から働けます」と伝えている。

 


 焦った。

 


 事業所の中を、「どうしよう!」と叫びながら走り回った。

 


 120周ほど走り回ってから、また腹を括った。

 


 テレアポするしかない。

 


 仕事を外に出していそうな会社に電話をかけまくり、「とにかく一度会ってください」とお願いした。

 


 同情するより、仕事をくれ状態だ。

 


 そうやって、なんとか4月から施設内就労をスタートすることができた。

 


 その経験を通して、気づいた。

 


 "世の中は、営業でできている"と。

 

 

 
 営業とは、単にモノを売ることではない。

 


 自分の想いや価値を相手に伝え、人に動いてもらい、共感してもらうことだ。

 


 営業は、人と人とのコミュニケーションそのものなのだと思う。

 


 「伝える」から、「共感される」へ。

 


 

 4月は、そんなことを身体で学んだ一ヶ月だった。

 


 待っているだけでは、何も始まらない。

 


 だから今は、飲食事業でも福祉事業でも、“外に取りにいく”ことを積極的に推奨し、先導し、扇動している。強要はまだしていない。

 


 怖くても、不器用でも、まずは伝えにいく。

 


 営業とは、そういう“届けようとする意志”のことなのだと思う。



連載コラム【就労支援とわたし】vol.3『「奇跡の人」が教えてくれたこと』

 娘が通う中学の文化発表会を鑑賞した。

 

 この学校は、リベラルアーツ教育と呼ばれる「考える力を育てる教育」に力を入れているようで、演劇もその一環として授業に組み込まれている。

 年に一度、その成果を披露する文化発表会があり、学年ごとにそれぞれ磨き上げた舞台を発表する。

 

 去年もその舞台を観て感動したこともあり、今年も楽しみにしていた。

 

 もちろん娘の学年の演劇も見応えがあり、どちらも素晴らしい舞台だった。

 

 ただ、福祉の仕事をしているからだろうか。私の心を強く揺さぶったのは、ひとつ下の学年が演じた『奇跡の人』だった。

 

 ヘレン・ケラーと家庭教師アニー・サリヴァンの物語である。

 

 目も見えず、耳も聞こえず、言葉も持たない少女ヘレン。

 

 世界とつながる術を持たない彼女に、サリヴァン先生は何度も、何度も、諦めずに向き合い続ける。

 

 そして有名な「水」の場面。

 

 井戸のポンプから流れる水に触れながら、手のひらに刻まれる指文字。

 

 その瞬間、ヘレンの中で「物には名前がある」という世界の扉が開く。

 

 舞台の上では中学生たちが演じている。

 

 それでも、その場面では会場が静まり返り、気がつけば私は涙をこらえることもできずにいた。

 

 福祉の仕事をしているからこそかもしれない。

 

 あの場面は、「人が世界とつながる瞬間」を描いているように感じた。

 

 

 少し前、何かの記事を読んでいて、偶然知ったことがある。

 

 世界の人口の約15%、およそ12億人が、何らかの障がいを抱えているという数字だ。

 

 その数字を知ったとき、正直、はっとした。

 

 結局、誰かが困っているときに手を伸ばすこと。

 自分にできることで力になること。

 

 そういうことは、本来「特別なこと」ではないはずだ。

 

 助ける側と助けられる側も、固定された関係ではない。

 

 人は誰でも、状況によってどちらの立場にもなる。

 

 だからこそ、自然に支え合える社会であってほしいと思う。

 

 昔からある「持ちつ持たれつ」という言葉。

 

 あれは、人間社会のとてもシンプルな真理なのかもしれない。

 

 

 就労支援の現場でも、それは同じだ。

 

 誰かの一歩を支えているつもりでも、気がつけば、こちらのほうが教えられていることも多い。

 

 当たり前を、当たり前にできる社会。

 

 微力かもしれないけれど、その一部をつくる仕事をしているのだと思う。

 

 

 文化発表会の舞台を観ながら、そんなことを考えていた。

 

 『奇跡の人』は、ヘレン・ケラーの物語だ。

 

 でも同時に、人が人を信じて関わり続けることの物語でもある。

 

 誰かが誰かの世界の扉を、そっと開く。

 

 就労支援という仕事は、その瞬間に静かに立ち会う仕事なのかもしれない。



“たった一人”を

 娘が、何かに取りつかれたように編み物をしていた。


 黙々と。
 棟方志功が版画を彫るかのように、ただひたすら毛糸と向き合っている。



 しばらく観察していて、思った。



 あれは、ただ編んでいるのではない。
 “誰かのために”編んでいるのだな、と。

 

 自分用に作る時の空気とは、どこか違う。



 渡したい相手がいて、
 喜ぶ顔を思い浮かべながら、
 一目一目を重ねている人の手に見えた。



 その姿を見ながら、仕事でも同じだなと思った。



 
 企画でも、商品でも、イベントでも、
 うまくいくものには共通点がある。



 誰かを喜ばせたい。
 何かを良くしたい。



 そこから始まっていることだ。



 逆に、なんとなく作られたもの。
 誰に向けたのか分からないものは、やっぱりどこか弱い。



 広く届けたい。
 たくさんの人に売りたい。



 その気持ちはよく分かる。



 でも、最初から広さばかりを追うと、輪郭がぼやける。



 だからこそ、ターゲットとなるお客様を、たった一人にまで絞り込む。



 仕事帰りに疲れているあの人。
 家族との外食を楽しみにしているあの人。
 少し元気をなくしているあの人。



 その一人に、狭く深く届くように考える。



 すると、味も、言葉も、見せ方も、価格も、驚くほど具体的になる。



 そして不思議なことに、
 たった一人に深く届いたものほど、結果的に大きく広がっていく。



 「自分が好きになったから、あの人も気に入ってくれたら嬉しいな」



 そうやって、人づてに。
 口コミで。
 共感で。



 広がっていく。



 広さは、狙うものではなく結果なのだと思う。



 娘の編み物も、きっとそうなのだろう。



 世界中の誰かのためではなく、
 たった一人の誰かのために編んでいる。



 だから、手に熱が宿る。



 「誰を喜ばせたいのか?」



 その“誰”の顔を、思い浮かべる。



 そうやって生まれたものには、不思議と温度が宿る。



 想像は、いつも創造の手前にある。



 心を込めるとは、
 そういうことではないだろうか。



言葉の重心

 就労継続支援A型事業所で、利用者さんを紹介していただくために、近隣の福祉関連事業所へ訪問したり、DMを送ったりしている。



 最近は、支援員のスタッフがテレアポにも挑戦している。



 ただ、これがなかなか簡単ではない。



 電話をかけても、
 つれなく切られたり、
 セールスと勘違いされたり、
 「関係ないです」と言われてしまったり。



 そんなやり取りが続くと、人は少しずつ“守り”に入る。



 失敗の記憶は強い。



 別の部屋でその様子を聞いていると、こんな言い回しが耳に入ってきた。


 「もし必要なければ、送らない方がよろしいですか?」

 

 

 一見、丁寧で気遣いのある言葉に聞こえなくもないが、後ろ足重心で、いつでも逃げられる準備万端の“断りやすい選択肢”を先に差し出している言い方が気になり、スタッフを呼んで伝えた。

 

 

 「その言い方だと、必要な人でも“いらない”って言いやすくなってしまうよ」と。

 

 

 そして、こう言い換えてもらった。

 

 

 「今回もいつものように送らせていただきますので、選択肢としてご相談されたい方がいらっしゃいましたら、お気軽にご連絡ください」

 

 

 しばらくすると、隣の部屋から聞こえてくる空気が変わった。

 

 

 さっきまでとは、明らかに違うやり取り。

 

 

 電話を終えたスタッフが、

 

 

 「全然違う反応が返ってきました」と。

 

 

 言葉は、使い方で変わる。

 

 

 たった一言で、
 人を遠ざけることもあれば、
 人を近づけることもできる。

 

 

 僕自身、これまで何度も言葉で失敗してきたし、今もよく失敗する。

 

 

 何気なく口にした一言で、相手を傷つけてしまったこともあるし、
 逆に、たった一言で救われた経験もある。

 

 

 言葉は、目に見えないけれど、確実に“影響”を持っている。

 

 

 だからこそ、扱い方ひとつで、
 あたたかさにもなるし、鋭さにもなる。

 

 

 今回のスタッフのように、
 ほんの少し言い回しを変えただけで、違う結果を掴めることもある。

 

 

 それはテクニックの話だけではない。
 もっとシンプルな本質の話だと思う。

 

 

 「相手にどう届くか」を想像できているかどうか。

 

 

 その想像力を使うかどうかで、
 言葉の持つ力はまるで違ってくる。

 

 

 ついつい出てしまった一言の後悔は、思っている以上に長く残る。

 

 

 言葉を扱っているということは、
 それだけで可能性でもあり、責任でもある。

 

 

 どうせ使うなら、
 誰かの背中を押せる言葉を選んでいきたい。

 

 

 そんなことを、あらためて感じた。





か弱き子羊たちへ

 ちょっとした憧れだけで、飲食業界に飛び込んだ。

 

 

 はじめて働いたその日、一日中立ちっぱなしで、夜には猛烈な後悔に襲われた。

 

 

 「なんでこんなとこに来てしまったんやろ…」

 

 

 翌朝、腰と足の痛みで目が覚めた。
 それでも、「さすがに1日で辞めるのもな…」と自分に言い聞かせて店に向かった。

 

 

 店には、驚くほど仕事ができる社員たちがいた。
 飲食経験ゼロのポンコツだった僕は、そうするしかなかった笑顔の裏でずっと思っていた。

 

 

 「できるわけがない…」と。

 

 

 うまくいかないことが続くと、人はどうしても“足りない部分”ばかりを見るようになる。
 世の中、思い通りにいかないことの方が多いから、なおさら。

 

 

 だからこそ、本当は“強み”に目を向けた方がいいのかもしれない。

 

 

 ——と、今なら思う。

 

 

 でも正直に言うと、
 あの頃の僕が何を強みにしていたのかなんて、まったく覚えていない。

 

 

 ただ一つ覚えているのは、
 慣れない手つきでネギを切っていて、左手の人差し指を切ったこと。

 

 

 30年経った今でも、その傷だけはしっかり残っている。

 

 

 肝心の“強み”は覚えていないのに、傷だけは残る。
 なんとも皮肉。

 

 

 それでも、数日経ったある朝、
 ふと気づいた。

 

 

 「あれ?腰も足も痛くないぞ」と。

 

 

 慣れ始めていた。

 

 

 できなかったことが、少しずつ普通になっていく。
 特別な何かを掴んだわけではない。
 ただ、続けただけ。

 

 

 苦手を埋めるより、得意を伸ばした方がいい——
 そんな言葉はよく聞く。

 

 

 でも実際は、得意も苦手もよく分からないまま、
 目の前のことをやり続けるしかない時期がある。

 

 

 それで、いい。

 

 

 関わりの中で、自分の良さはあとからぼんやり見えてくる。

 

 

 伸ばした得意も、
 必死に超えようとした壁も、
 その時の自分にはよく分かっていなくても、

 

 

 続けた事実だけは、ちゃんと残る。

 

 

 今、初めての環境に挑んでいる人たちの中にも、いると思う。

 

 

 何食わぬ顔で笑っているように見せながら、
 心の中では「できるわけがない」と呟いている人が。

 

 

 そんな世界中の、か弱き子羊たちに一つだけ伝えたい。

 

 

 

 コマ無し自転車に初めて乗った日のことを、覚えているだろうか?

 

 

 何回も転んで、何回も諦めかけて泣きながら、
 「乗れるわけがない」と思ったあの日のことを。

 

 

 それでも、立ち上がり、
 膝小僧に傷をつくりながら、
 もう一回、もう一回とペダルに足をかけた日を。

 

 

 その後ろで、パパやママは言っていたはず。

 

 

 「大丈夫、乗れるようになるよ」と。

 

 

 あの時の自分と同じ。
 もうみんな、経験しているじゃないか。

 

 

 “できるわけがない”を、“できるようにした”ことを。

 

 

 だから、僕はあの日と同じように、
 パパやママになり変わって、挑戦するみんなの後ろから、でっかい声で言ってやる。

 

 

 「大丈夫、できるようになる!」

 

 

 聞こえるか?ガンバレ!

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目標の定点観測【3月Ver.】

 何げなく目にした広告に、こんな言葉があった。

 

 「守ることは攻めること」

 

 何の広告だったのかは思い出せない。

 でも、この一文だけが、なぜか頭に残り続けている。

 

 

 振り返ってみると、3月は「攻め」の月だった。

 

 

 飲食事業では、インバウンド獲得に向けたプロジェクトチームを立ち上げた。

 リストを作り、テレアポをして、最終的には「担当者が担当者に会う」ことを目的に動いた。

 

 

 企業宴会の獲得についても同じ。

 チームを作り、営業マニュアルを整え、こちらも“関係性づくり”をゴールに据えた。

 

 

 福祉事業でも動いた。

 就労継続支援A型事業所【miraicrew】では、施設内での請負業務をスタートさせるための営業活動。

 支援員のスタッフも、利用者さんの獲得に向けて動いてくれた。

 

 

 振り返ると、いろんな意味で「攻めていた」一ヶ月だった。

 

 

 その中で、ひとつだけ意識していたことがある。

 それは、成果を“手前”に置くこと。

 営業であれば、もちろん契約や獲得は大事。

 でも、それを最初のゴールにしてしまうと、どうしても関係は薄くなる。

 

 

 だから僕は、「関係性をつくること」を手前のゴールに置いた。

 すぐに結果が出なくてもいい。
 でも、次に繋がる関係は残す。

 一過性ではなく、連続性。

 

 

 そんなことを考えていたとき、ふと思い出したことがある。

 

 

 娘が通う学校のバレーボール部の先生が、リベロというポジションについて話してくれた時のことだ。

 

 

 「リベロは守りだけ、と思われがちですが、実は“仕掛けるポジション”なんです。隙をつくって、相手に打たせる。そういう仕掛けを楽しんでほしい」

 

 

 その話を聞いたとき、思わず頷きすぎて首がもげそうになった。

 

 

 守りに見えるものの中に、攻めがある。

 むしろ、本当の攻めは、派手な一手ではなく、
 相手との関係の中で仕掛けていくものなのかもしれない。

 

 

 3月は、そんな“攻め”を積み重ねた一ヶ月だった。

 

 関係性をつくる。
 関係性を続ける。
 関係性を育てる。

 

 すぐに結果を求めるのではなく、
 時間をかけて育てていく。

 

 それもまた、ひとつの攻め方ではないか。

 

 

 あの時見た広告の言葉。

 

 「守ることは攻めること」

 

 何の広告だったのかは思い出せないのに、この一文だけが、頭に残り続けているのは、こういうことか。

 

 自分でした納得の頷きで、今度はしっかり首がもげた。



やめ続けた僕と、素数と、長崎と。

 中途半端にやめてしまった記憶が、僕にはいくつもある。

 

 

 アホ過ぎて心配した母親に、半ば強引に通わされたそろばん塾。やはりアホ過ぎて付いて行けず、穏やかで評判の塾に移籍したけれど、場所が変わってもアホはアホ。半年ほどでやめてしまった。

 

 

 諦めないオカンは、それならばと当時では珍しかった学習塾に通わせた。でも結果は同じだった。

 

 

 ある日、先生に「これくらい分からないのか?やめるか?」と問い詰められた。その瞬間、なぜか被せるように叫んだ。

 

 

 「やめたるわ!」

 

 

 そう言って塾を飛び出した。

 

 

 塾の奥にあったテレビでは、阪神対西武の日本シリーズが流れていた。

 

 

 満塁ホームランを打った長崎が、手を叩きながらホームに帰ってくる。なぜかその映像だけは、今でも妙に焼き付いている。関係ないけど。

 

 

 大人になっても、逃げ癖は変わらなかった。

 

 

 奇跡的に受かった大学も前期で辞めたし、夜間の専門学校を出て新卒で入った会社も、新入社員研修明けの7日目で辞めた。旧約聖書の「創世記」かよ、と思うくらい、きれいに7日目で休み、辞めた。

 

 

 それからも職を転々とした。関わった多くの人をがっかりさせてきた。もちろん、自分自身にも。

 

 

 それなのに母親は、不思議とがっかりしなかった。

 

 

 「いつか見つかるわ」

 

 

 やめるたびに、同じ言葉を笑いながら言った。

 

 

 見つかるわけがない。そう思っていた。

 

 

 でも、見つかった。

 

 

 飲食業だけは、続いた。嫌なことも、理不尽も、なぜか割り切れた。

 

 

 ところが一度だけ、そこから離れたことがある。自分が見えなくなったからだ。

 

 

 そして、また職を転々とした。また多くの人をがっかりさせた。もちろん、自分自身にも。

 

 

 その時も母親は言った。

 

 

 「見つかるわ」

 

 

 結婚したばかりの嫁も、同じことを言って笑った。

 

 

 

 素数という数字がある。

 

 

 1と自分自身以外では割り切れない自然数のことだ。

 

 

 ふと思う。

 

 

 “やり続けられること”を見つけた人間というのは、少しだけ素数に似ているのかもしれない。

 

 

 いろんなものに割り切れず、寄り道ばかりしてきたけれど、最後に残ったものがあった。

 

 

 結局僕は、また飲食業に戻り、今もその業界と関わり続けている。

 

 

 素数は、1と自分自身でしか割り切れない。

 

 

 僕にとっての「1」は、「いつか見つかるわ」と笑ってくれた母親や嫁さんだったのかもしれない。

 

 

 だから今度は、僕が誰かの「1」になりたいと思っている。

 

 

 うまくいかない人に。

 自分を見失っている人に。

 

 

 「いつか見つかるわ」と、心から本気で言える人でありたい。

 

 

 そういえば、「やめたるわ!」と叫んで塾を飛び出したとき、満塁ホームランを打った長崎の背番号は【3】だった。

 

 

 素数じゃないか。

 

 ……関係ないけど。

 



知らない自分をミラーれている

 先日、お店に届いたアンケートの中に、なかなか強烈な一文があった。

 

 

 「…あんな人間置いてたら誰も行かなくなる。久しぶりにとんでもなくムカついた。」

 

 

 読む側としても、なかなか胸に刺さる言葉だ。お客様に申しわない気持ちを抱きつつ、できれば見なかったことにしたいし、「きっと勘違いだろう」と流してしまいたくもなる。

 

 

 でも、こういう言葉が届いたときこそ、立ち止まる価値があると思っている。

 

 

 僕はそのアンケートを、社内SNSの管理者が集まるグループに共有して、こう書いた。

 

 

 「こういうののしられ方されてたら、すぐに何があったか動いた方がいい。ちなみに申し訳ないけれど、これはお客様が感情を吐き出しただけとは俺は思わない。因果律。必ず何らかの原因がある。それが返って来てるだけ。こういうお返事も大切にしないと。」

 

 

 すると担当の管理者から返事が来た。内容は要約すると、「言い方や言葉の選び方を改善するよう指導しました」というものだった。

 

 

 もちろん、それも大切だ。言葉のチョイス一つで空気は変わる。接客では特にそう。でも、僕が言いたかったのはそこではない。

 

 

 言葉の言い方を整えることは、表面の話。もっと大事なのは、その奥にあるものだと思っている。

 

 

 お客様がここまで怒るには、必ず何か理由がある。それを、

 

 「言い方が悪かった」

 「感情的な話し」

 

 で終わらせてしまったら、何も変わらない。

 

 

 こういうアンケートは、いわば鏡だ。しかも、あまり見たくないタイプの。でもその鏡には、確かに“そう見えている自分” が映っている。

 

 

 たとえ自分ではそんなつもりがなくても、その一瞬の態度や表情、言葉の温度が、お客様の心に引っかかったのかもしれない。

 

 

 だからこそ、まずは受け止める。すぐには難しいかもしれない。でも、時間をかけてでも受け止める。「そんな自分もいるのだ…」と。

 

 

 管理者の役割は、ただ表面的な改善を指導することではない。その人が、自分自身を見つめ直すきっかけをつくることだと思っている。

 

 

 人は誰でも、プライドを持っている。でも、そのプライドが邪魔をすると、せっかくの学びの種を踏みつけてしまう。

 

 

 クレームや厳しい言葉というのは、決して気持ちのいいものじゃない。けれど、ときどきそこには自分を成長させてくれるヒントが紛れている。

 

 

 クソみたいなプライドは、結局クソなので、畑に蒔いて肥やしにしてしまおう。厳しい言葉ほど、大事に。(ちなみに僕、ほぼ毎日嫁さんに言われている)

 

 

 神様がわざわざ届けてくれた「見直すチャンス」だと思って。

 

 

 

 見たくない鏡ほど、ときどきちゃんと覗いてみる。そこに映る自分から、次の一歩が始まる。

 

 

 成長は痛いもの。

 

 

 その痛みを避けていたら、人も店も、強くならない。

 

目標の定点観測【2月Ver.】

 2月は、誕生日の月だった。

 

 

 52歳という、キリの悪いなんとも言えない中途半端な年齢になったわけだけれど、不思議と今年は、これまでで一番多くの人から「おめでとう」のメッセージをいただいた。

 

 

 べつに「2月25日生まれです!」とアピールしながら過ごしていたわけではない。

 

 

 ただ、振り返ってみれば、この一年で出会った人の数が圧倒的に増えたことは、大きいと思う。

 

 

 年齢も職業もバラバラなのに、「この人、凄いな…」と思わせられる人たち(僕のメンターとも呼べる人)に、たくさん出会った。

 

 

 そういう人たちは総じて、“連絡の仕方”が絶妙。

 

 

 「特に用事はないけれど、ふと思い出したから」

 

 

 そんな軽やかさで連絡をくれる。

 

 

 正直、これまでの僕は違った。

 

 

 その人のことを思い出しても、用事がなければ連絡なんてしないし、そもそも「わざわざ今じゃなくていいか」と思ってしまうタイプだった。

 

 

 でも、メンターと呼ぶべき人たちは違う。

 

 

 「おもむろに」連絡をすることを、ためらわない。

 

 

 そんなメンターの一人の方が提唱し実践されている考え方がある。

 

 

 

 ―― “おもむろ最強説”。

 

 おもむろに携帯を取り出し、
 おもむろにメッセージを送り、
 おもむろに「ありがとう」を伝える。

 それは一見、ただの思いつきに見える。
 でも実際は、相手の心に“見えない楔”を打ち込む行為

 

 だ。

 

 

 確かに、ふとした一言が関係を近づけた経験は、僕にもある。

 

 

 逆に、ほんの数秒の躊躇で、言葉を飲み込んでしまったこともある。

 

 

 「言えばよかったなぁ」という後悔は、地味に長く残る。黙ったせいで距離が生まれることだってある。

 

 

 だからこそ、“おもむろに”動ける人は、未来への布石を拾える人なのだと気づいた。

 

 

 計画的な行動ばかりが未来をつくるわけではない。むしろ、無意識の一瞬の方が、大事な始まりになったりする。

 

 

 そして、この「おもむろな一瞬」は、たいてい前向きだ。優しさや気づきから芽生える衝動だからだ。

 

 

 だから僕は、この2月で改めて思った。

 

 

 思いついたら、すぐ動く。
 湧いた気づきは、書きとめる。
 そして、“おもむろに”人に連絡する。

 

 

 面倒くささを理由に、その瞬間を流してしまわないために。

 

 

 蒔かなければ、芽は出ない。芽が出なければ、育つこともない。

 

 

 52歳の誕生日に、そんな当たり前のことを、もう一度ちゃんと胸に刻んだ。

 

 

 “おもむろ”の数を増やそう。

 

 

 僕を導いてくれる人たちの背中に、少しでも近づくために。

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カラフ流

 大事な本番を前にして、プレッシャーに押しつぶされそうになることがある。仕事でも、試合でも、人生をかけた挑戦でも同じ。

 

 

 かつての僕は、そのプレッシャーに真正面から挑むタイプだった。

 

 

 寝食は適当になり、人付き合いも断ち、家族との会話すら最小限。「今はこれがすべてだ。これ以外、考えてはいけない」そうやって自分を“特別な状態”に持っていった。

 

 

 結果どうなったか。

 

 

 うまくいっても燃え尽きるように倒れ、失敗すれば立ち直れないほど自分を責める。そして毎回のように体調を崩す。熱を出して寝込み、そのせいで毛根もかなり旅立っていった。

 

 

 そんな僕が、ある時に気づいた。

 

 

 プレッシャーに強い人は、本番が近づくほど“普段通りでいようとする”ということに。

 

 

 たとえば、トップアスリート。

 

 

 試合の直前、緊張のピークのはずなのに、意外な光景を見る。

 

 ——お気に入りの音楽をゆるく流す。
 ——ロッカールームを散歩する。
 ——本を一章だけ読む。

 

 なぜか?

 

 理由はシンプルだ。

 

 

 「試合のことだけを考える状態」が一番危ないと知っているからだ。

 

 

 人は“それ一色”になると視野が狭まり、本番に飲まれる。だから、緊張のピークほど、あえて別のものに意識を向けて心をゆるめる。

 

 

 すると不思議なことに、さっきまでの強すぎる緊張が、少しずつ“ちょうどいい緊張”に戻っていく。

 

 

 結局のところ、大事な場面で実力を出せるかどうかは、「いつもの自分を連れていけるか」に尽きる。

 

 

 背伸びした自分でも、特別扱いされた自分でもない。普段の、ちょっと抜けてる自分のままでいい。

 

 

 本番のためにすべてを犠牲にする生き方は、頑張っているようで、実は自分をむしばんでいく。

 

 

 逆に、いつもの暮らしをいつものように続ける人ほど、一番大事な場面にも落ち着いて立てる。

 

 

 「なぜ頑張っている自分が、遊んでばっかり(に見える)のアイツに抜かされるのか…?」

 

 

 おそらくアイツは、“それ一色ではなくしている”のだ。ナチュラルにそうしている可能性もかなり高い。

 

 

 いま僕が大事な仕事に臨む時に大切にしているのは、それを「特別な時間にしない」こと。

 

 

 散歩をする。
 コーヒーを飲む。
 好きな音楽を聴く。

 

 

 肩の力が抜けるルーティンを、あえて挟む。

 

 

 それだけで、心に少し余白が生まれ、その“ほんの少し”がプレッシャーを静かにほどいてくれる。

 

 

 平常心があれば、大抵のことは大丈夫。

 

 

 日常を、それ一色にしない。普段通りのカラフルさ。

 

 

 ——そう、カラフルな方がいい。



親友とは——

 車の中での何気ない会話だった。

 


 「親友と呼べる存在って、いる?」と嫁さんが聞いてきた。

 

 

 僕は転校を経験し、幼馴染のような“ずっと一緒にいる誰か”との縁が途切れてしまったこともあり、子どもの頃から親友と呼ばれる関係性にどこか憧れがあったけれど、実際には、「親友だ」とお互い言い合えるような相手は、結局一人もいない。そう答えた。

 

 

 すると嫁さんも「私もいないなぁ」と同じ答えを返し、車内のBGMごと消えたような時間が少し流れたあとで、ふっとこんなことを言った。

 

 

 「しいて言うなら……こうちゃん(僕の名前)が親友かな?」

 

 

 その瞬間、胸の奥を掴まれたようで、気づけば涙があふれ出していた。
 

 

 言った本人である嫁さんもなぜか涙を流し始め、いい年した大人二人が運転中に急に泣き出す危な過ぎる妙な時間を味わった。

 

 

 

 親友とは何なのか。

 

 

 あの時、嫁さんが「親友」と言った相手に僕を選んでくれたことに対して、「あ、それ、ほんまや」と深くうなずけた自分がいた。

 

 

 恋愛や家族とは少し違う、けれど確かに“人生を共にしている”と実感できる感覚だった。

 

 

 英語でたまに目にするフレーズがある。

 

 “Wherever we are, we carry each other’s stories.”
 

 直訳すれば「どこにいても、私たちは互いの物語を運んでいる。」という味気ない言葉になるが、僕の中ではこう解釈している。

 

 

 「どこにいても、あなたの物語は私の中で生きている。」

 

 

 そう、親友とは、もしかすると——
 

 距離や頻度や時間とは関係なく、「その人の物語が、自分の中で息づいている存在」のことなのかもしれない。

 

 

 嫁さんの物語は、僕の中に深く根を下ろしている。
 

 

 僕の物語も、きっと嫁さんの中で小さく灯っている。
 

 

 そう思うと、親友という言葉が、今までとは違う特別な響きを持って胸に残った。

 

 

 血縁を超え、他人を超え、夫婦という枠さえ飛び越えたところで結ばれるもの——


 それは、人生の物語を互いに預け合い、抱えて生きているという感覚なのだろう。

 

 

 親友とは誰かに“なる”ものではなく、気づけば互いの物語の中に深く入り込んでしまった結果、自然とそうなっていくものなのかもしれない。


 

 知らんけど。

 

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背景、この手紙。

 ある日の夜遅くに、娘が部活の仲間に配るのだと言って、手作りクッキーを小さな袋に詰め、一つ一つに添える手紙を書いていた。

 

 

 「それ、この人の手紙は書くこと浮かばないとか… ペンが止まるとか、ないの?」

 

 

 と、野暮かもしれない質問をしてみた。

 


 すると娘は、こちらに顔を向けることもなく、

 

 

 「全然。一人一人書きたいことあり過ぎて、まとめるのに困るくらい」

 

 

 と返してきた。野暮でした。

 


 日々同じ時間を過ごし、関わり続け、共通の目標を持つ―― そんな濃い関係性があれば、そりゃあ“書きたいことが溢れる”のも当たり前だ。

 


 そんなことを思いながら、いつの間にか、自身の仕事のことを思い浮かべていた。

 

 

 

 毎日、全店舗分のお客様アンケートが、数十件、いや、多い時では百件以上専用サイトに届く。

 

 

 それを確認して、良い声ならコメントを添えて社内共有、改善点があるなら管理者たちに共有し、注意喚起をする。

 

 

 そんなことを、日々続けている。

 


 そうしているうちに気づいたことがある。

 


 「これって、スタッフたちが書いた“手紙”に、お客様が返事をくれているみたいなものだな」と。

 


 スタッフが日々の営業の中で交わす一つ一つの行動。笑顔のひと言も、丁寧な説明も、気づきの声かけも、時には至らなかった対応でさえも、全部がお客様に向けて書いた“手紙の一文”のようなもの。

 


 そしてアンケートは、その手紙への“返信”みたいなものだ。

 


 そう考えるようになってから、「笑顔での接客に好感を持てました」という短いメッセージでさえ、急に奥行きが出て見えるようになった。

 


 そこに至るまで、どんな接客があり、どんな空気が流れ、どんな時間が共有されたのか。その背景にある“物語”が自然と浮かんでくる。

 


 もちろん、アンケートを集計してスコアを見ることも大事だ。

 

 

 数値はチームの状態を把握するための道具になる。

 


 けれど同時に、その一文が紡がれるまでの物語を想像し、「今日、スタッフのみんなはどんな手紙をお客様に届けたんだろう?」と読み解くことは、もっと大事なことかもしれない。

 


 

 娘はクッキーの袋に、一枚ずつ丁寧に書き終えた手紙を貼りながら、

 

 

 「喜んでくれるかな?」

 

 

 と、目にくまをつくりながら少し照れたように言った。

 


 きっと喜んでくれるはず。

 

 

 こんな時間までかかって、目にくまを作りながらひと言ひと言したためたのだから。

 

 

 
 そして思う。

 

 

 日々のお客様との関わり合いの中にいるスタッフたちも、それぞれの想いを込めた“手紙”を届けることができたら、アンケートという“お返事”が、今よりもっと楽しみになるだろうな、と。

 


 そんな文通のような、お客様とのやりとりが自然と育まれる環境を、僕はつくらないといけない。

 

 

 娘のクッキーに負けないように。

 

"I LOVE"言う

 お客様に「おすすめは何?」と聞かれたとき、商品名だけを返すよりも、「私はこれが好きです」と伝えたほうが、お客様との距離は縮まる。

 

 

 接客には、そういう関係性づくりの小さなきっかけが多々ある。

 


 売り込むのではなく、ただ自分の“好き”をそっと差し出すだけ。

 

 

 それだけで、お客様の表情が柔らかくなる場面を、僕は何度も見てきた。

 


 

 先日、長女からLINEが来た。

 

 

 「このバンドめっちゃいいから聴いてみて」

 

 

 添えられていたのは『忘れらんねえよ』というバンドの曲。

 


 我が家の家族はそれぞれが時折、そうやって自分の“好き”を共有してくれる。

 

 

 聴いてみると、これが驚くほどまっすぐでいい。特に【アイラブ言う】のストレートな歌詞。

 


 アイラブ言う あなたが好きだと言うのさ

 アイラブ言う 死ぬほど好きだと言うのさ

 


 夏目漱石が I love you を「月が綺麗ですね」と訳した奥ゆかしさも好きだけれど、なぜかこのバンドのド直球な伝え方に、心を掴まれてしまった。

 


 思えば、お店でおすすめを伝えるのも同じかもしれない。

 

 

 「人気です」よりも「私はこれが好き」。

 

 

 そのひと言のほうが、人の心には確かに残る。

 


 お店の空気は、働く人やお客様の“気持ち”の積み重ねでできていく。

 

 

 マニュアルだけでは作れない空気感は、その場にいる一人ひとりの“好き”から生まれるものだろう。

 


 娘がバンドを勧めてくれたように、誰かの“好き”がまっすぐ届くと、人の心はふっと動く。

 


 だから、お店でも日常でも、自分の「好き」を自然に差し出せる人が、増えていけばいいなと思う。もちろん、自分も含めて。

 


 アイラブ言う。

 あなたが好きだと言うのさ。

 


 あの曲のように、人の心をあたためる“好き”を、照れずに渡しあえる場所。

 

 

 そんな場所を、これからも少しずつ 増やしていけたら、と思う。

 

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