「四人で遊んでて、私は鬼ごっこがしたい!って言ったのに、一人の子が、登り棒がしたい!って言いだして、他のみんなもそうしよ!ってなって、結局、登り棒をすることになって、そんなことばっかりで、全然、自分のやりたい事ができん…」
と、下の娘が泣きながら言う。
「じゃあ、その中で、一番、登り棒を楽しむ人にならなアカンな。人が決めたことが嫌なら、一人でやりたい事をやればいいやろ?それか、別の場所で、自分のやりたい事ができる仲間を集めるか。それが嫌なら、みんなに従うのは当たり前や。そうと決まったら、その中で一番楽しむ。世界で一番登り棒が好きな女の子になるぐらいに。」
「それやったら、いつまで経っても自分がやりたい事ができんやん。」
「そう、人を動かさな、やりたい事は出来んねんで。ノンちゃんが無理矢理に鬼ごっこをしたとして、それでみんなが楽しめると思う?楽しめてないみんなを見て、ノンちゃんは楽しいかな?だから、ノンちゃんが今、やらないといけない事は、登り棒を全力で楽しむって事やねんで。」
「それで何で自分がやりたい事ができるようになるん?」
「楽しそうなことより、楽しそうな人の方が大事なんやで。楽しそうに登り棒をするノンちゃん、楽しそうに掃除をするノンちゃん、楽しそうに歌を唄うノンちゃん。そういう人に、人は動かされるんやで。のんちゃんが鬼ごっこしたいなら、「きっと楽しい鬼ごっこになる」と、みんなが思うまで、決まった事を、全力で楽しむんやで。」
分かったのか、どうかは分からないけれど、娘は泣き止んで自分の部屋に行った。
〔誰が言うかより、何を言うか〕
が大事で、その言葉の本質を探ろうとしていた時期がある。
年を重ねて気付いた。
〔何を言うか〕
なんて、大したことではない。
受け取る方も人なら、発する方も人だ。
結局は、人なんだ、と。
ハゲのオッサンがお薦めする育毛剤を誰が買うねん。
〔誰が言うか〕
が重要と分かったなら、その〔誰が〕を磨くしかない。
〔何を言うかなんかより、誰が言うか〕
「あの人が言うなら、やってみよう!」
と思われているか?
結果にコミットしてない体形の人が薦めるライザップに行く?
頑張り方を、変えてみようよ。