学生時代、オーストラリアを長期間一人で旅したことがある。
ブリスベンの町はずれで、ディジュリドゥというオーストラリア先住民アボリジニの伝統的な金管楽器の演奏をぼんやり聴いていると、一人の男性がアボリジニに伝わることわざを紹介してくれた。
「夢見る気持ちを失った人は、迷子になる。」
ディジュリドゥの不思議なリズムとその言葉と、ホームシックみたいなものが重なって、なぜか涙が溢れてきたことを鮮烈に覚えている。
いや、本当は忘れていた。
あれから25年が経ったある日、小学2年生の末娘が突然、
「パパ!バレーボールでオリンピックに出たいんやけど、どうやったら出れるん?」
と、UFOキャッチャーのぬいぐるみを簡単にゲットする方法を聞くように質問をしてくるので、
①バレーボールの日本代表としてオリンピックに出場する。
↓
②プロのバレーボール選手になる(スカウトされる)。
↓
③大学で大活躍する。
↓
④バレーボールの強豪大学に進学する(スカウトされる)。
↓
⑤春高バレーにレギュラーとして出場する。
↓
⑥春高バレーに出場できる可能性のある高校に進学する(スカウトされる)。
↓
⑦バレーボールで私立中学に進学する。
↓
⑧ジュニアバレーで全国大会に出場する(私立中学にスカウトされる)。
という感じの流れを夢の場所から逆算した順番で娘に説明し、
「物事には段階があって、一つづつ越えていけば絶対に出れるよ、知らんけど。」
と、とにかく一つ飛ばしで、何なら全部すっ飛ばして進みたい自分に自戒の念コミコミのアドバイスを付け加えながら説明した。
「ふーん… じゃあ、全国大会やな、とりあえず。」
居酒屋で僕の分のなんこつ唐揚げを注文してくれるような口ぶりで言う彼女を、「子供は無邪気やなぁ…」なんて思いながら、末娘の顔をなんとなく眺めていた。
その、小学2年生だった無邪気な彼女は、あの日僕が、オリンピックまでの道のりを説明した通りに3年後、本当に⑧をクリアし、運命に導かれるように⑦に辿り着こうとしていた。
大人はつい、夢をそれらしい可能性で数値化しようとし、あまりにも低く見積もったその可能性を「無邪気」という言葉に変えて、笑う。
あの日の僕もそうだったのかもしれない。
「今」と「夢」の間にある、一つ目の点でさえ遠すぎて見えない事を言い訳にして。
夢は気持ちだ。可能性で計るな。
スポーツ推薦で行く、中高一貫のその私立中学で合格通知を受け取った時、ふいにそんな事を思った。
学生時代、オーストラリアを旅した時に出会った言葉が、記憶の奥底から蘇ってきた。
「夢見る気持ちを失った人は、迷子になる。」
あの旅の日から歳を重ね、僕は大人と呼ばれるようになり、結婚し、子どもが産まれ、親になり、現実を身にまとう内に、ディジュリドゥの不思議なリズムと言葉を重ね、涙を溢れさせた自分を、すっかり記憶の奥底へ追いやっていた。
僕の娘が今いる場所から、夢の場所までは果てしなく、いや、果てしな過ぎる程、遠い。
でも彼女は平然と、またあの頃と変わらない口調で僕に言うんだろう。
「春高にレギュラーで出るから」と。
彼女に負けてはいられない。
僕にも、僕なりの夢がある。
よし、パパだって。
9年後、2032年夏。
オーストラリア・クイーンズランド州ブリスベン。僕が学生時代に旅をし、
「夢見る気持ちを失った人は、迷子になる。」
というアボリジニのことわざを紹介してもらった、あの街。
その場所で、第35回夏季オリンピックは開催される。
ディジュリドゥの不思議なリズムが響く会場で躍動する日本代表を、大学生になった僕の娘はどう見るんだろう。
「夢見る気持ちを失った人は…」
今までに幾度となく話した例の昔話しを遮って、彼女はきっと僕に言う。
「迷子になんか、ならないって。4年後は、もうすぐそこやから。」
と。
パパも負けてられない。
夢は、気持ちだ。