自分の心の中にあるものを人に届けようとしたら、言葉はとても便利なように感じて、当然のように言葉に頼り、さもそれが完全なもののように思ってしまうが、実はそうではない。
言葉は不完全だ。
自分の心の中にあるものは、言葉としては存在していない。
ふつふつと、ある。
何か知らんけど、何かある。
心の中にある感情が、例えば100兆個の粒の塊だったとして、言葉は、その一粒を認識する事はできず、1兆個程度を最小の塊だと認識して、
「はい、こちら、心の中にある感情、100個分の塊でーす!」
と、外に出す。本当は100兆個のもっと複雑なものなのに。
言葉とは、そういうものだ。
届かないかもしれないが、届くかもしれないぐらいのざっくりとした感覚や期待。
だから、いい。
外に出せば、それ以下に捉えられたり、それ以上に捉えられたり、相手に委ねるしかないところ。
これだから、いい。
だから人は、言葉以外にも、音楽や絵画やダンスなどの多くの芸術を生み出し、心の中の「何か知らんけど、ある」ものを届けようとし、相手がそれを、それぞれの捉え方で受け取って来た。
相手に委ねる。
すべて、それを前提としている。
そうしないといけないものしか持ち合わせていない僕たちは、きっとそれを「そのせい」と思ったり、「おかげ様で」と思ったりしながら生きていく。
委ねる側の自分も、委ねられる側の自分も、多くの勘違いで傷付いたり、悲しんだり、喜んだり笑ったりしながら生きていく。
同じ勘違いなら、楽しい方がいい。
心の中の「何か知らんけど、ある」ものなんて、所詮、曖昧なものだ。
そんな曖昧なもので、落ち込んでたまるか。
それくらいでいい。
言葉は不完全だ。
忘れないようにしような。