マッチョさんの剃刀

飲食店で働くすべての人が「この仕事を選んで良かった!」と心から思えるように。

やたらめったらな感嘆符

 〔価値を認める〕がどうも勘違いされているように感じる。

 

 

 何かの一つ覚えみたいに、何でもかんでも褒めときゃいいみたいな空気感や、当然のことを「当然じゃないよ」なんて言うことで喜びを感じ、「着眼点が違う俺って最高!」なんていうような快楽を味わっている様子を度々目撃したり、そんな話しを耳にしたりすることが多くて、正直、げんなりする。

 

 

 先日も、「凄い!」とつい言がちだけれど当たり前の話に「そんなもん、当たり前」を投げかけると、「それは当たり前のようで当たり前ではない」なんていうよくあるフレーズが飛んでくるような会話の中にいて、心の中で2万回タメ息を吐いた。

 

 

 

 うかつな「凄い!」は、当たり前の基準値を下げる。

 

 

 

 その昔、アントニオ猪木は、ヒクソン・グレイシーに敗れた高田延彦のことを、

 

 

 「よりによってプロレスで一番弱い奴が出て行った」

 

 

 と言った。

 

 

 これを聞いて、「猪木は酷い」と罵るファンがいたが、なんとなく、手当たり次第に「凄い!」を言いまくりたがる人に似ている。

 

 

 あの時、猪木は、プロレスの価値を守った。歴史的敗戦の後にでも尚、プロレスの基準値を上げようとした。

 

 

 「高田はプロレスでも凄い奴やったんやけどな」

 

 

 なんて言っていたとしたらどうだろう?「やっぱりプロレスラーは、ガチンコでは勝てないんだな…」と、高田敗戦ではなく、プロレス敗戦だと、もっと騒がれていたハズだ。

 

 

 無暗に「凄い!」を連発する人には、猪木を見習ってもらいたい。

 

 

 

 〔価値を認める〕ことは、褒めることだけではない。

 

 

 時には怒ることも、叱ることも、間違いを指摘したりすることも、〔価値を認める〕からこそ溢れる感情だったりする。

 

 

 「褒めるな」とは言っていない。逆に「価値を認めろよ」と言いたい。〔価値を認める〕には今、何が一番大切なのかを、もっと考えた方がいい。

 

 

 やたらめったらな感嘆符は、価値の基準値を下げる。

 

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