「自分が見ている」
という意識の必要性。
例えば誰かに意地悪をして、それを誰も見ていなかったとしても、それをした自分が、その自分をちゃんと見ている。
そして少し、自分のことが嫌いになる。
仲間についてしまったバレていない嘘。落ちているゴミをまたいで通った。あきらかに困っている人を無視して通り過ぎた。…
そしてまた少し、自分のことが嫌いになる。
「自分が見ている」
という意識を失うと、どんどんどんどん自分のことが嫌いになっていくように思う。
誰かが見ようが見まいが、自分の美意識を磨いてやればいいのだろうけど、人は弱い。
寄りかかれる理由が必要な時がある。
それが、人の目というやつ。
その目がなかった時にやってしまうイケナイこと。
「自分が見ている」
は、少しづつ自分のことを嫌いなっていく自分に、ストップをかける意識。
つい意地悪をしてしまいそうになった自分を。仲間につきそうになった嘘を。またぎそうになったゴミを。…
踏みとどまった自分。
そんな自分は、逆に、少しづつ自分から好かれていく。不思議な感覚。
ここぞという時、助けてくれる自分。自分が自分に寄りかかっているような。
自画自賛。
それは決して、誇張や過大評価ばかりではない。
自分と向き合い続けてきた自分のプロセスを、讃えようじゃないか。