『人に見られている』や『人に見てもらう』という意識があるのとないのとでは、大きな違いが生まれる。
観客論の欠落で発生する問題は多い。
休みの日にジムへ。
コンビニでタバコを買う時、わざわざ1000円札を出し、
「お釣りは全部10円玉で下さい!」
と言って店員に嫌がられ、財布を重たくしてウロウロするという日々のトレーニングの成果を確かめに。
ベンチプレスで110kgを超えた辺りから、周りがザワザワしてきた。
「あの人、見て…何㌔上げるんやろ?」
瞬間的に感じた。
「見られてるぅッ!」
意識シマクリクリスティだが、全く聞こえてないよ的な雰囲気を醸し出し、今まで上げたことも無い120kgという未知の領域であるプレートを付けた。
鏡越しに周りをチェック。
「見てるッ!」
僕はベンチに寝転び、いつもこれくらい上げてますねん的な仕草で挑戦した。
2回上がった。
2回上げたのは、1回だと無理している事がバレるので、まだまだ余力があると思わせたかったから。見栄はりな僕。
格闘技をバリバリしていた時も上げた事がない120kgを、2回も上げてしまった。見られているという勝手な意識は恐ろしい。
今しているそのオペレーション
今作っているその料理
今しているその仕事…
何か大事な事が抜けていないか?
失敗する理由の「なぜ?」の根幹の部分に、それがあるんじゃないか?
『見られているから』人は成長するのではない。
『見られているという意識』が、人を成長させるのだ。
と思ったりなんかして。