“時間”について、過去、何度もこのブログでチラ見せのように書いてきた。
「世界中、どこのどんな人間にも平等に与えられているものは時間しかない」
と、ホンダの創業者である本田宗一郎が言われたずっとずっと後に、僕は本田宗一郎と全く同じ言葉を、3年1組の教室で叫んだ。
高校3年生で始めて出来た彼女が終業式の日、クリスマスプレゼントにと、手編みのマフラーをくれた。
彼女がくれた茶色のマフラーは、ゴツゴツ&チクチクした代物で、とても巻きにくかったけれど嬉しくて、その場で巻いて「どう?」なんて言いながら、一緒に笑い合ったりした。アオハルかよ。
冬休みが終わり、始業式の日にマフラーを巻いて教室に入ると、一人のクラスメイトが、
「おい!?どないしたんや?セントバーナードの抜けた毛を集めて作ったんか、それ!?」
と言った瞬間、教室が揺れるほどの大爆笑に包まれた。
大爆笑と同時に、僕は音の無い世界に迷い込んだみたいに、自分の「セント…セントバー…ナード…」という呟きさえも聞こえなくなった。
指を差して笑っている小林、手を叩いている山下、マフラーを触ろうとこっちに向かってくる高見… 全員が白黒で、スローモーションになった。
スローモーションの高見が、僕の首に巻き付いているセントバーナードの抜けた毛を集めて作ったようなマフラーに触れた瞬間、僕はその手を払いのけ、
「世界中… 世界中、どこのどんな人間にも平等に与えられているものは時間しかないんや!俺の彼女が、俺の彼女が、その時間を、俺の、俺だけのために使ってくれた時間を、お前ら、お前らぁ… 笑うなーーーーッ!」
と叫んだ。
その後、どうなったのかは覚えていない。覚えてはいないけれど、それから数年後、たまたま目にした本田宗一郎が言った例の言葉に身震いした。
「これ、俺のヤツやん…」
と。
「…セントバーナードの抜けた毛を集めて作ったんか、それ!?」
というクラスメイトの例えツッコミのおかげで、僕はその“時間”について考えるようになった。
平等に与えられている自分の時間を、僕のために、使ってくれている。
僕のために作る時間、僕のために買いに行く時間、僕のことを考える時間、僕に手紙を書く時間、僕に何かを言ってくれる時間、僕のことを思ってくれる時間…
“自分に時間を与えてくれている”
そう捉えられたら、注意されたり、文句を言われたり、嫌味を言われたり、そう受け取ったその行動の、相手のそんな時間でさえも、その言葉のトゲトゲしさでケガをした外側の傷さえ癒えれば、マイナスではなく、プラスとして自分の中に入れられる。
「世界中、どこのどんな人間にも平等に与えられているものは時間しかない」
1日24時間、1週間168時間、1ヶ月720時間、1年8,760時間… 平等に与えられた限られた時間。
知ってか知らずか、僕たちはそれを独り占めせず、分け合いながら生きている。
“自分に時間を与えてくれている”
そう感じられたその気持ちを「感謝」と呼び、受け取ったその気持ちを、相手に届ける言葉が「ありがとう」なんだろう。
それは、あの日、セントバーナードの抜けた毛を集めて作ったようなマフラーを巻き、教室で叫喚した17歳の僕が、254,040時間を使い、今の僕に届けてくれた、時空を超えたメッセージのような気がする。