マッチョさんの剃刀

飲食店で働くすべての人が「この仕事を選んで良かった!」と心から思えるように。

不思議なポッケ

 あまりにも有名な『ドラえもんのうた』では、不思議なポッケがあんな夢やこんな夢を叶えてくれるが、実は僕たちも、そのポッケを持っている。

 

 

 今から約2年前、コロナウィルス感染拡大による3度目の緊急事態宣言が出される少し前、僕は『未来の当たり前の種』というタイトルで、イノベーションについてこのブログに記事を書いた。

 

macchosan.hatenadiary.org

 

 この記事で僕は、

 

 

 「イノベーションは価値の創造… まだ見ぬ未来の当たり前の種は、きっとお店のアチコチで息を潜め、当たり前に囚われた僕たちを見つめている。…」

 

 

 と書いている。

 

 

 で、どうだっただろうか?

 

 

 2年前のこの時には当たり前ではなかったことが、2023年の今、当たり前になっている現実はないか?

 

 

 お持ち帰り売上を獲得できたらいいな。誰かが配達してくれたらいいな。予約対応を機械がやってくれたらいいな。席配置も勝手にしてくれたらいいな。…

 

 

 過去の「こうなってくれたらいいな。」が現実に。

 

 

 僕たちは、想像することで未来の当たり前を引き寄せている。

 

 

 想像する力。

 

 

 イノベーションは求めるものじゃない。ついてくるもの。

 

 

 大切なのは、創造の手前にある『想像』の力。

 

 

 そう、これこそが、不思議なポッケ。

 

 

 

 「こんなこといいな、できたらいいな」

 

 

 それをどれだけ想像できるか。

 

 

 想像力。

 

 

 想像したら、言う。

 

 

 「あんな夢、こんな夢、いっぱいあるけど」

 

 

 声に出して言う。何回も、多くの人に、大きな声で、言う。それはアウトプット。アウトプットすれば

 

 

 「みんな、みんな、みんな」

 

 

 に響く。

 

 

 「叶えてくれる?」

 

 

 それはわからない。だけれど、

 

 

 「不思議なポッケで」

 

 

 この現実を作ってきたように、未来も同じように作り続けていくはず。

 

 

 「叶えてくれる」

 

 

 その日のそれが、イノベーションなんだろう。

 

 

 

 そう、その想像力は、いつかの『叶う』の種だ。

 

 

 

 

夢は、気持ちだ。

 学生時代、オーストラリアを長期間一人で旅したことがある。

 

 

 ブリスベンの町はずれで、ディジュリドゥというオーストラリア先住民アボリジニの伝統的な金管楽器の演奏をぼんやり聴いていると、一人の男性がアボリジニに伝わることわざを紹介してくれた。

 

 

 「夢見る気持ちを失った人は、迷子になる。」

 

 

 ディジュリドゥの不思議なリズムとその言葉と、ホームシックみたいなものが重なって、なぜか涙が溢れてきたことを鮮烈に覚えている。

 

 

 いや、本当は忘れていた。

 

 

 あれから25年が経ったある日、小学2年生の末娘が突然、

 

 

 「パパ!バレーボールでオリンピックに出たいんやけど、どうやったら出れるん?」

 

 

 と、UFOキャッチャーのぬいぐるみを簡単にゲットする方法を聞くように質問をしてくるので、

 

 

 ①バレーボールの日本代表としてオリンピックに出場する。

  ↓

 ②プロのバレーボール選手になる(スカウトされる)。

  ↓

 ③大学で大活躍する。

  ↓

 ④バレーボールの強豪大学に進学する(スカウトされる)。

  ↓

 ⑤春高バレーにレギュラーとして出場する。

  ↓

 ⑥春高バレーに出場できる可能性のある高校に進学する(スカウトされる)。

  ↓

 ⑦バレーボールで私立中学に進学する。

  ↓

 ⑧ジュニアバレーで全国大会に出場する(私立中学にスカウトされる)。

 

 

 という感じの流れを夢の場所から逆算した順番で娘に説明し、

 

 

 「物事には段階があって、一つづつ越えていけば絶対に出れるよ、知らんけど。」

 

 

 と、とにかく一つ飛ばしで、何なら全部すっ飛ばして進みたい自分に自戒の念コミコミのアドバイスを付け加えながら説明した。

 

 

 「ふーん… じゃあ、全国大会やな、とりあえず。」

 

 

 居酒屋で僕の分のなんこつ唐揚げを注文してくれるような口ぶりで言う彼女を、「子供は無邪気やなぁ…」なんて思いながら、末娘の顔をなんとなく眺めていた。

 

 

 その、小学2年生だった無邪気な彼女は、あの日僕が、オリンピックまでの道のりを説明した通りに3年後、本当に⑧をクリアし、運命に導かれるように⑦に辿り着こうとしていた。

 

 

 

 大人はつい、夢をそれらしい可能性で数値化しようとし、あまりにも低く見積もったその可能性を「無邪気」という言葉に変えて、笑う。

 

 

 あの日の僕もそうだったのかもしれない。

 

 

 「今」と「夢」の間にある、一つ目の点でさえ遠すぎて見えない事を言い訳にして。

 

 

 

 夢は気持ちだ。可能性で計るな。

 

 

 スポーツ推薦で行く、中高一貫のその私立中学で合格通知を受け取った時、ふいにそんな事を思った。

 

 

 学生時代、オーストラリアを旅した時に出会った言葉が、記憶の奥底から蘇ってきた。

 

 

 「夢見る気持ちを失った人は、迷子になる。」

 

 

 あの旅の日から歳を重ね、僕は大人と呼ばれるようになり、結婚し、子どもが産まれ、親になり、現実を身にまとう内に、ディジュリドゥの不思議なリズムと言葉を重ね、涙を溢れさせた自分を、すっかり記憶の奥底へ追いやっていた。

 

 

 

 

 僕の娘が今いる場所から、夢の場所までは果てしなく、いや、果てしな過ぎる程、遠い。

 

 

 

 でも彼女は平然と、またあの頃と変わらない口調で僕に言うんだろう。

 

 

 「春高にレギュラーで出るから」と。

 

 

 彼女に負けてはいられない。

 

 

 僕にも、僕なりの夢がある。

 

 

 よし、パパだって。

 

 

 

 9年後、2032年夏。

 

 

 オーストラリア・クイーンズランド州ブリスベン。僕が学生時代に旅をし、

 

 

 「夢見る気持ちを失った人は、迷子になる。」

 

 

 というアボリジニのことわざを紹介してもらった、あの街。

 

 

 その場所で、第35回夏季オリンピックは開催される。

 

 

 ディジュリドゥの不思議なリズムが響く会場で躍動する日本代表を、大学生になった僕の娘はどう見るんだろう。

 

 

 

 「夢見る気持ちを失った人は…」

 

 

 今までに幾度となく話した例の昔話しを遮って、彼女はきっと僕に言う。

 

 

 「迷子になんか、ならないって。4年後は、もうすぐそこやから。」

 

 

 と。

 

 

 パパも負けてられない。

 

 

 夢は、気持ちだ。

 

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2023年ってこんな感じ!

 「今年一年をどんな年にしたい?漢字一文字で表そう!」

 

 

 この企画をやりだして3年目。毎日のように開く手帳の見開きページにもデカデカとその文字を書き、いやがおうでも目に入るようにしている。

 

 

 目に入る。

 

 

 実はこれ、とても大事なことで、目にする量の多い少ないは意識を大きく左右する。

 

 

 

 【集】

 

 

 今年、僕はこの漢字を選ぶことにした。

 

 

 深い意味はない。だけれど何となく、昨年の終盤から【集】という漢字が頭の中にあり、【喜】と【集】が並走しているような感覚がずっとあった。

 

 

 僕の2023年。

 

 

 【集】を選んだけれど、【集】にそこまで意味を持たせてはいない。

 

 

 どんな一年になるのかわからないけれど、毎日のように開く手帳の見開きページにデカデカと書いた【集】に、僕は間違いなく意識を左右されるはず。

 

 

 2023年の終わり、今年を振り返った時に【集】が教えてくれる意味。

 

 

 それを楽しみに待ちたい。

 

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2022年の始まりに【喜】を選んだ理由。

 2021年から「今年一年をどんな年にしたい?漢字一文字で表そう!」という年始に漢字一文字の目標設定をする行事を勝手にやりだした。

 

 

 2021年は【報】で、その振り返りはこのブログに書いた。

 

macchosan.hatenadiary.org

 

 

 2022年は【喜】を選び、そのこともこのブログに書いた。

 

macchosan.hatenadiary.org

 

 

 この記事の中で僕は、

 

 

 「たぶん、きっと、多くの人が、2022年の間に僕がこの漢字を選んだ理由を知ることになるだろう。いや、そうなってもらわないといけない。」

 

 

 と書いている。偉そうに。

 

 

 実はこの時から、いや、これよりずっと前から僕は、自社の経営理念である"「食の喜び」の創造"を、社内外に浸透させるというミッションを勝手に背負い、2022年はそれを行動で知らしめる年にすると決めていた。

 

 

 だからその為に、あちこちで自分を売った。

 

 

 少しでも僕が話すことに興味を持ってもらいたくて、アホな話し9割、マジな話し1割という目的を見失わないギリギリのバランスを守りながら、喋り倒した。

 

 

 すると、本当に声がかかった。

 

 

 LINEのイベントにLIVE出演、関連サイトのインタビュー、Webラジオのゲスト、ビールメーカーの勉強会や百貨店や美容室、建築業界などのセミナー登壇… 本当にあちこちから呼ばれ、"「食の喜び」の創造"を語りまくった。

 

 

 2022年の始まりに【喜】を選んだ僕が宣誓のように

 

 

 「たぶん、きっと、多くの人が、2022年の間に僕がこの漢字を選んだ理由を知ることになるだろう。…」

 

 

 と書いたのは、こういう2022年を思い浮かべていたからだ。

 

 

 アウトプットが先で、インプットは後。

 

 

 「おもしろい」と口にすれば、「うれしい」と口にすれば、「たのしい」と口にすれば、「もっとおもしろい」や「もっとうれしい」や「もっとたのしい」のきっかけが舞い込んでくる。

 

 

 もちろんその逆に、マイナスの発言はもっとマイナスのきっかけが舞い込んでくる。

 

 

 言葉だけではない。

 

 

 表情や態度や仕草もアウトプット。

 

 

 自分がそうだから、そう返って来る。

 

 

 アウトプットが先で、インプットは後。逆じゃない。

 

 

 未来がどうなるかなんてわからない。

 

 

 だけれど未来は、間違いなく今の自分が作っている。

 

 

 いいアウトプットは、刺激的なインプットを連れて来てくれる。

 

 

 【喜】は、確実に広がっている。

 

 

 

〇〇〇〇って、〇〇〇〇!

 自分がワクワクしたり、周りをそんな気持ちにさせたい!と思ったり、どちらかと言うと作り手側が見失ってしまわないように、今年からごちそう村では販促テーマを掲げ、わかる人にはわかるぐらいのひっそり感で、POPの右端にロゴを設置したり、Gochi-muraのGoとchiの間に「!」をねじ込んだりしていた。

 

 

こんな感じで(左下の隅っこ)↓

 

 

こんな感じのロゴ↓

 

 

 2022年は、『お出かけするって楽しい!』というテーマだった。

 

 

 コロナ禍も落ち着き、外に出ることの喜びをお客様におもいっきり感じてもらいたくて、このテーマにした。

 

 

 残念ながら2022年も、少しは薄らいだ感はあったものの相変わらずのコロナ禍だったけれど、『お出かけするって楽しい!』という打ち出しは、外に出ることの喜びを味わてもらういいテーマだったと思っている。手前味噌だけど。

 

 

 

 そして2023年。

 

 

 一緒に仕事をしているH女史に「来年はどうします?」と突然3つのロゴを見せられて迫られた。

 

 

 「え?もうロゴ考えてるの?しかもテーマまで考えてる…」

 

 

 正直驚いた。

 

 

 多くの場合、僕はピッチャーで周りはバッターだった。僕が投げて誰かが打つ。それが役割。だと思っていた。なのに、いきなり球が飛んできた。H女史は当然のように、ワインドアップのモーションからキレの良いストレートを投げ込んできた。

 

 

 「いいやん、めっちゃいい。」

 

 

 僕はその中から一つを選び、注文を付けた。

 

 

 「どうしてもテーマに入れたい言葉があるねん。これを、その言葉に変えてくれる?それをテーマにしよう。」

 

 

 「いいですね、とても。」

 

 

 僕が打った球は、彼女のグローブに収まった。

 

 

 

 もう少しで今年が終わる。

 

 

 今年一年、自社はもちろん、色んなお店で色んなものを食べ、そして感じたシンプルな気持ち。

 

 

 「おいしいって、ハッピー!」

 

 

 みんなにそれを届けたい。

 

 

 一緒に、届けよう。



人生は、そう悪くない。

 生きていると色んなことが起こる。

 

 

 楽しいことよりも、苦しくてツライことの方が多いかもしれない。

 

 

 楽しいと思って自分が選んだことでも、その奥側は、苦しくてツライことで溢れていたり、時間が経つとそれがにじみ出てきたり、大変だ。

 

 

 「楽しいこと」を選ぶと、「思ってたんとちゃう!」と嘆いてその場から去るか、その状況にさいなまされて、病む。「楽しいこと」を選ぶからそんなことになる。

 

 

 

 その点、「楽しむこと」は凄い。

 

 

 苦しいことやツライことの中に潜んでいる「楽しいこと」を、「楽しむこと」は見つけようとする。視点も、観点も、焦点も、着眼点も、視野も違う。全然違う。覚悟も。

 

 

 「楽しむこと」を選び、楽しんでいる人を見ては羨み、僕も!と、「楽しいこと」を選ぼうとすると、いつまでも、本気で楽しんでいる人にはなれない。

 

 

 

 生きていると色んなことが起こる。

 

 

 苦しくてツライことの方が多いかもしれない。

 

 

 だけれど、その、苦しくてツライことの中には、その数と同じだけ、「楽しいこと」は潜んでいる。

 

 

 人生は、そう悪くない。

 

 

 「楽しいこと」を選ぶのではなく、「楽しむこと」を選ぼう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

色々あって、でもハッピー。

 おもしろいかどうか?

 

 

 いつの頃からか、僕の判断基準はこの一点になった。

 

 

 ”おもしろい”という判断基準は、別にゲラゲラ笑うことを求めている訳ではない。

 

 

 今際の際、「おもしろい人生だった…」と呟いて果てたとしても、ゲラゲラ笑うような人生を意味している訳ではない。

 

 

 きっと「色々あって、泣いたり笑ったりしたけれど、今、思い返すとハッピーだった…」みたいな事なんだろう。

 

 

 

 そう、僕はこの「色々あって、でもハッピー。」という感覚的で抽象的で複雑で、なのに出口はぶっとく一つなアホみたいな表現を、適当に一まとめにギュッとした”おもしろい”という表現が、きっと好きなのだ。

 

 

 書きながら、ふと耳にしているイヤホンが気になった。

 

 

 一本のイヤホン。

 

 

 この一本の中には、無数の銅線が詰まっていて、束ねられ、一まとめになって僕に音楽を運んでくれている。

 

 

 まさに「色々あって、でもハッピー。」

 

 

 おもしろいじゃないか、お前も。

 

 

 

 

2022年ってこんな感じ!

 去年から、「今年一年をどんな年にしたい?漢字一文字で表そう!」ということを勝手にやりだした。

 

 

 不思議なもので、言い出したからか何なのか、宣言してしまうと多少なりとも責任を感じ、ことあるごとにその一文字を思い浮かべてしまう。

 

 

 なのでやっぱりこの企画は、自分にはとても大事だ思えるので、今年もやってみることにする。

 

 

 「さて、何にしたものか?」

 

 

 去年の12月を、ほぼこのテーマを考えることだけに費やした。運転中はもちろん、かつやで大根の漬物をご飯にのせる瞬間も、もっこすラーメンのたくわんをもう一枚食べるかどうか迷う時も、セブンイレブンで変なwifiに繋がってpay払いに手こずっている時でも、どんな大変な時であろうと考えていた。

 

 

 そして、決めた。

 

 

 「好きな食べ物は?」と聞かれ、「はい、カレーライスです」と答えるぐらいベタで恥ずかしいのだけれど、2022年の漢字は

 

 

 【喜】

 

 

 にした。

 

 

 たぶん、きっと、多くの人が、2022年の間に僕がこの漢字を選んだ理由を知ることになるだろう。いや、そうなってもらわないといけない。

 

 

 カレー屋さんのマスターが好きな食べ物はカレーだ。知らんけど。

 

 

 そんな感じで2022年が始まった。

 

 

 さぁ、今年もまた、楽しんでいこうか。

 

 

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2021年の目標に【報】を選んだ人の話。

 一年の終わりに、「今年一年を漢字一文字で表すなら?」なんてやらずに、「今年一年をどんな年にしたい?漢字一文字で表そう!」っていう目標設定を…

 

 

 と、日本漢字能力検定協会に喧嘩を売る形で始めた2021年の目標漢字。

 

macchosan.hatenadiary.org

 

 僕は【報】を選んだ。

 

 

 「報いる : 受けた事に対して、それに見合う行為を相手にすること。」

 

 

 改めて調べてみると、第二次世界大戦後の日本の防衛戦略『専守防衛』のようだ。更に報いるは、自分でそう思ったことであっても、相手がどう思ったかが重要なわけで。

 

 

 どこかの誰かさんみたいに「どう?報いた?俺、報いた?」なんて聞く訳にもいかない。どうやら僕は、達成したかどうかを自分で判断できにくいややこしい漢字を選んでしまったらしい。今更だけれど。

 

 

 

 2021年の僕は、「してくれている」事を前提に行動してきた(つもりだ)。「してくれていると思うようにして」といった方が正しいかもしれない。

 

 

 それが自分から始めることであっても「してくれている」と捉え、「みなさんへのお返しなんですよ、エヘヘ。」と、行動してきた(つもりだ)。相手にわかろうが、わかるまいが関係なしに。

 

 

 よくよく考えてみれば、それはやっぱり【報】という漢字に込められた意味そのものだったりするので、もしかすると僕は、しれーっと【報】のゴールテープを切っているのかもしれない。

 

 

 

 そんな感じで2021年が終わろうとしている。

 

 

 やれなかったり、できなかったことも、たくさんある。だけれど、なぜかあまり覚えていない。この先、やりたい事はハッキリしているけれど。

 

 

 それでいいんだろう。

 

 

 選ぶ道、ぜんぶ未来。

 

 

 色々あった一年を振り返ってみて、その道にある色々の色一つ一つが、通った道の彩りになっている。

 

 

 複雑な色が重なり合う方が楽しい。みんなも、きっとそうだろう。

 

 

 さぁ、来年も一緒に、カラフルな一年にしような。

 

 

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言葉は不完全

 自分の心の中にあるものを人に届けようとしたら、言葉はとても便利なように感じて、当然のように言葉に頼り、さもそれが完全なもののように思ってしまうが、実はそうではない。

 

 

 言葉は不完全だ。

 

 

 自分の心の中にあるものは、言葉としては存在していない。

 

 

 ふつふつと、ある。

 

 

 何か知らんけど、何かある。

 

 

 心の中にある感情が、例えば100兆個の粒の塊だったとして、言葉は、その一粒を認識する事はできず、1兆個程度を最小の塊だと認識して、

 

 

 「はい、こちら、心の中にある感情、100個分の塊でーす!」

 

 

 と、外に出す。本当は100兆個のもっと複雑なものなのに。

 

 

 言葉とは、そういうものだ。

 

 

 届かないかもしれないが、届くかもしれないぐらいのざっくりとした感覚や期待。

 

 

 だから、いい。

 

 

 外に出せば、それ以下に捉えられたり、それ以上に捉えられたり、相手に委ねるしかないところ。

 

 

 これだから、いい。

 

 

 だから人は、言葉以外にも、音楽や絵画やダンスなどの多くの芸術を生み出し、心の中の「何か知らんけど、ある」ものを届けようとし、相手がそれを、それぞれの捉え方で受け取って来た。

 

 

 相手に委ねる。

 

 

 すべて、それを前提としている。

 

 

 そうしないといけないものしか持ち合わせていない僕たちは、きっとそれを「そのせい」と思ったり、「おかげ様で」と思ったりしながら生きていく。

 

 

 委ねる側の自分も、委ねられる側の自分も、多くの勘違いで傷付いたり、悲しんだり、喜んだり笑ったりしながら生きていく。

 

 

 同じ勘違いなら、楽しい方がいい。

 

 

 心の中の「何か知らんけど、ある」ものなんて、所詮、曖昧なものだ。

 

 

 そんな曖昧なもので、落ち込んでたまるか。

 

 

 それくらいでいい。

 

 

 言葉は不完全だ。

 

 

 忘れないようにしような。

 

 

 

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全部あとの話し。

 素敵な出会いも、

 

 

 おもしろい事が起こるのも、

 

 

 考えていたり、思っていたりじゃなくて、自分が行動を起こしたあとの話し。

 

 

 起こったことの始まりは、いつだって「やってみて」だ。

 

 

 上手くいくことに価値があるのではない。

 

 

 「やったこと」それ自体が価値だ。

 

 

 素敵な出会いも、おもしろい事も、全部、やってみたあとの話しだ。

 

 

 やってみよう。

 

 

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決断なんていらない。

 晩ごはんのメニューを具体的に決めてからスーパーに買い物に行きたいと思っています。

 

 手軽に作れて美味しく、尚且つ健康にも良いメニューは?しかも、2~3品は並べたい… そんなことを色々考えていたら、スーパーが閉店時間になってしまいました。

 

 作りたいメニューはボンヤリとは浮かんでいるのですが。

 

 明日こそはメニューを具体的に決めてから、スーパーに買い物に行きたいと思っています。…

 

 

 

 決断が行動を促すと誰に教えられたのか?

 

 

 なぜ思いつきはダメなのか?

 

 

 思いつきで降りかかるリスクか?

 

 

 失敗した時の経験は目に見えず、リスクは目に見えるからか?

 

 

 ブレーキをかけるな。

 

 

 決断なんていらない。

 

 

 思いつきはアイデア

 

 

 神様からのアドバイス

 

 

 「行動しろよ。」と背中を押してくれている。

 

 

 思ってばかりはもうやめて、晩ごはんを求めてスーパーに行こう。

 

 

 行ってから決めてもいいし、決めなくてもいい。

 

 

 美味しそうな食材を適当に買えばいい。

 

 

 家に帰って食材を並べて、悩む。こともしなくていい。

 

 

 何を作るかなんて決めなくても、大根の皮をむけばいい。キャベツは刻めばいい。

 

 

 多くの人が、決断を求めすぎている。

 

 

 決断なんてしなくていい。

 

 

 「思っている」はもうやめて、思いつきと出合う一歩を踏み出そう。

 

 

 それは特別なことではない。

 

 

 やってみるって、楽しい。

 

 

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ポーズに賞賛

 以前、「やろうと思っています!」の中身の無さについて、本当ならクソカスに書いても良かったけれど、時代の流れに合わせて穏やかにオブラートにグルグル巻きにするような文章で書いたけれど、

 

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 相変わらず、未だに頻繁にこの「やろう思ってます!」に出くわすので、今度は視点を少し変えて、クソとカスをオブラートに包んで書こうと思う。

 

 

 

 最近は、この「やろうと思ってます!」という人よりも、「思っている」に対して賞賛の声をあげる人の方が罪が深いと感じるようになってきた。

 

 

 この罪深いお方が行っている自己満足の価値を認める風の行動は、PDCAサイクルのPの先っちょ部分で「いーねー!」を与えているのと同じ。

 

 

 「やろうと思っています!」は、そもそも、「いーねー!」が欲しいだけのポーズなので、言う方からすれば、ゴールテープを切った状態。

 

 

 P(計画)を練り上げることも、D(実行)に移すこともなく、Pの先っちょに留まり、また新しいPの先っちょを見つけてほざきだす。ほざき豊かだ。卒業してくれ。…

 

 

 

 こうして書くと、誰も前進していない恐ろしい状況だと改めて気付く。怖い。

 

 

 認めるべきは行動。

 

 

 失敗しても、成功しても、評価は行動にのみするべき。

 

 

 前にも書いたし、これからも何度でも言うけれど、少なくとも僕は、思いに賞賛を使いたくない。

 

 

 今回もまた、クソとカスをオブラートに包み過ぎた。

 

 

 飲み込んでくれ。

 

 

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情熱 A Go Go!

 そのサッカー少年は、大きくなるにつれ、自分が特別な存在では無いことを周りにいる人たちに知らしめられ、

 

 

 「好きなだけでは、どうしようもない」

 

 

 なんて諦めた人たちの常套句を、見たり聞いたり言われたりして、「わかってるって、そんなこと」なんて口にしながらも、やっぱりどうしようもなくサッカーが好きで、心の中に着いた火種が燃え盛るような想いを情熱と呼ぶなんてことをいつの間にか知り、その情熱を、実際のプレーはもちろん、プレー以外の場所でも溢れさせた。

 

 

 だけれど、自分はもう後半戦に突入していることを分かっていて、現実という、自分にとっては情熱と真逆にあるようなものを理解するために、溢れさせていた情熱を、「わかってるって、そんなこと」と言いながら、そっと、誰にも分らないように消した。

 

 

 つもりだった。

 

 

 アディショナルタイム

 

 

 情熱は、飛び火して燃えていた。

 

 

 あの日、溢れさせた情熱は、どこかの大人の胸に届き、響いた。

 

 

 

 「続けないか?サッカーを。」

 

 

 

 スカウトしてくれた監督の言葉が沁みた。まるで現実が語りかけてきたように思えた。

 

 

 情熱が、現実を飲み込んだ時、「好きなだけでは、どうしようもない」が「好きだから、どうしようもない」に変わった。

 

 

 試合終了のホイッスルが鳴った。

 

 

 ただ、彼にはそれが、次の試合の始まりの合図に聞こえた。

 

 

 

 僕の甥っ子に起こったそれは、現実を歩く僕たちにも起こり得る。

 

 

 情熱 A Go Go!

 

 

 燃やし続けたって、いい。

 

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面倒くさくて仕方ない

 僕は、『面倒くさい』という感情を、とても大切にしている。

 

 

 世の中にある大事なことは、だいたいが面倒くさい。

 

 

 「面倒くさいな…」

 

 

 が心の中で湧いたら、「これは、きっと大事なことだ!」と思えば、色んなことがハッピーに映る。

 

 

 「面倒くさいからやらない」では悲しいし、面倒くさいことと向き合い、戦う自分を知ることも出来ない。

 

 

 それでもどうしようもない時は、誰かにやってもらえばいい。

 

 

 この世は、需要と供給が見事なバランスで保たれている不思議な世界だ。

 

 

 僕にとっては面倒くさいことでも、誰かにとってはそうではないかもしれない。

 

 

 たまに僕が受け取る誰かの面倒くさいことが、僕にとってはウキウキするようなことだったり。そんなことなんていくらでもある。

 

 

 

 心に沸いた『面倒くさい』は、世の中にある大事なことを教えてくれる。

 

 

 僕もそうだし、君もそう。

 

 

 僕たちは、役に立つ。

 

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